暗がりの中で

ダンダンダン。
真夜中に響く戸を叩く音。
「カトーさあぁ〜ん」
玄関先に響く甘ったるい声。

「……ったく」
またか、と小さく舌打ちする。
「ねえ、あけてよおー、カトーさあぁ〜ん、いるんでしょーう?」
「ねえカトーさんってばあー」
一瞬居留守を決め込もうとも思ったが、ダンダンと扉を叩く音は消えてくれない。
「カトーさんカトーさんカトーさんカトーさああん」
「…………」
「ねーカトーさんってばあー」
ダンダンダン。

まあ、私には元から学校とこの部屋以外に居るところなんて殆どないのだ。
ましてやこの時間。いくら居留守を決め込もうと、私をよく知る人物にとって私が部屋に居るのはバレバレで、つまりこれは持久戦。うるささに私が耐えるか、訪問者が扉を叩いて声をあげるのに飽きるか。そのどっちか。
で、私は割と諦めが良いほうで、訪問者は粘り強くて、私が耐え切ったことは今までただの一度もない。

「うるさいわねえ、今あけるから静かにしてよ」
ドアに向かって叫んでから布団に寝転がって読んでいた小説から眼を離して、私はイヤイヤに立ち上がった。
「ありがとおーう、カトーさん好きー」
ドア越しに聞こえてくる、「加東」のアクセントはいつかの6月から聞き飽きたそれだ。

「今何時だと思って……」
お決まりの文句を呟きながら仕方なく扉をあけると、ムワッと襲ってくる酒の匂い。
「うわ……酒くさッ!」
「えへへー。またふられちゃったよおーう」

ぐでんぐでんに酔っ払った佐藤聖は、そのまま倒れこむように私の部屋に侵入した。


「あけてくれてありがとう!やっぱりカトーさんは優しいねえ」
「そうね」
「ねえ優しいカトーさぁん、今日は一緒に寝よ? ね、いいでしょ?」
「またぁ?いい加減にしてよ」
「だぁって寂しいじゃーん、人間って寂しいもんじゃーん」
そう言って私の肩に手をまわして抱きついてくる。

「ちょっと……近寄らないでよ、お酒くさいんだからっ」
引き剥がそうとしても「やだー」だなんて甘えた口調でいいながら、ますます強く抱きついてくる。
「ねえいいでしょー?寂しいんだよう。一緒に寝よ?ね?何もしないから」
「い、や、で、す。とにかく一回離れなさい酔っ払い」
「酷いなぁ……。カトーさんまで私をふるんだ」
ううう、だなんて唸りながらごしごしと肩に鼻を押し付けてくる。

「ふるもふらないも無いでしょうが。だいたいあなたがふられることなんて無いでしょ。どうせまた自分からふったくせに」
「そんなことないよーう。でもちょっと最近冷たくはしてたけどーぉ」
「……やっぱり」

「違うのっ」
呆れてため息をつきながら言う私の態度が癇に障ったのか、佐藤さんは急に身体を離して私の肩をがっしりと掴んで揺さぶった。
「違うのよっ。だって酷いんだよ?!『ちゃんと私を守って』だなんて言ってきてさあ! そんなの知らないじゃん? 知ったこっちゃないじゃん? 私はあんたの兄でも父親でも彼氏でもないっつーの! ほんっとにもうめんどくさいんだからああ! 全くもう守って欲しいのはこっちだっていうのに知るかっていうの」
「わ、わかったからあんまり揺らさないで」
そういうと佐藤さんはやっと私の肩から手を離して、ガクガクさせるのを止めてくれる。

「ごめん」
「……ともかくいつまでも玄関で話してるのも何だし奥にはいんなさい」
「……うん」


居間に入った佐藤さんは壁にもたれるように座って私の枕を膝に抱く。彼女がこの部屋に来たときのいつものスタイルだ。
「ううー……、ごめんねカトーさん。怒っちゃった?肩痛かったー? 首ムチウチなった? 痛いの痛いの飛んでけしてあげるよ」
「いやいいから。怒ってないし、大丈夫だから。とりあえずお茶でも淹れる間おとなしくしてなさい」

「お茶なんていらないよ。そこに居てよ」
「あなたがいらなくても私がいるの。だからちょっとおとなしくしてなさい」
「おとなしくしてたら一緒に寝てくれる?」
「それはダメ」
「私もダメ!」
「ダメったってねえ……」

……酔っ払いをまともに相手にするのが間違ってるかもしれない。
私がまた呆れたため息をつくと佐藤さんはもう一度ダメっと一言叫んでがばっと抱きついてくる。枕がぽさりと床に落ちる。
「あーもう暑っ苦しいから離れてよっ」
「だってええー、カトーさんが一緒に寝てくれないっていうからあああー……っていい匂いだねカトーさん」
鼻先を首筋につっこんで、何やらくんくんしている。
「ちょ、こらっ、やめなさいこのバカッ」
「わあああああ、バカって言ったあああ!どうせ私はバカだよお!」

急に、ふああああんぐすっ、ひぐっ、はぐ、ふあ、ふああああんと声をあげ、まるで子供みたいに泣き出す。呆気にとられる私から身を離して布団の端にぺたりと座り込んで、濡れた顔を天井に向けながら。彫像のように端整な顔がくしゃくしゃになっているのを見るのは、何かの前衛芸術を目にしたときのようにとても不思議な気分になる。
……しかし、今まで何度かこうして交際関係でいざこざがあった後に押しかけられることはあったけど、これはそのなかでも一番酷い情緒不安定ぶりで泣きっぷりかもしれない。

「大学生にもなってそんな泣き方しないでよ……みっともない。これで顔拭きなさい」
ハンドタオルを差し出すと佐藤さんは少しだけ泣き止んでちらりと視線をこちらに移す。
「……やだ」
「どうして」
「だって、だってそしたら、カトーさんのタオルが汚れちゃうし……」
「あなたねえ……」

そんな小さいこと気にするくせにどうして人の部屋に押しかけることは平気なのよ……という一言は飲み込んで、問答無用でごしごしと顔を拭いてやる。
「きゃ、わっ、痛い、痛いってばカトーさん」
「我慢しなさい」
「痛いよう」
「うるさい」
私は普段はこんなことはしないんだけど……。なんだか情緒不安定が伝染したようだった。大声で泣き喚く赤ちゃんを目の前にしたとき、どうしたらいいかわからずどうしようもなくなって自分まで泣き出したくなるのによく似ている。

「はい綺麗になった」
「痛かった……」
力を入れたせいで赤くなった高い鼻をすすりあげながら、佐藤さんはそれでも少しすっきりしたのか、しゃくりあげながらも泣き止んで布団にころんと横になった。

「カトーさん」
「なに」
「いつもごめん」
「そうね」

「座ってないで、隣、来てよ」
「……そうね」

少し首を傾げて、まだ潤んでいる目で見上げてくる佐藤さん。
私にはこの仕草に抗う力も方法もない。一緒に寝ようと言われたら拒否できるけど、隣に在ってくれと言われればもう拒否することはできない。
ああまたこうなるのか。結局こうなるのか。敵わないし叶わない。それに……私では適わないというのに。

並んで布団に寝転ぶとやっぱりちょっと暑かった。
「また本読んでたの?」
「ああ……うん」
佐藤さんは枕元に置いていた小説をぱらぱらとめくっている。
「本って、面白い?」
「まあ……面白くないのも面白いのも」
「私は、あんまり面白くないと思うんだ」
「そう」
「あと、本ばっかり読んでると頭おかしくなるんだよ」
「そうかもね……」

なんとなく部屋に沈黙が降りる。
数瞬後か、あるいは数十分後なのか。沈黙をごく控えめに破る「電気消していい?」という問いに、私はてきとうに頷いた。

こういう夜の訪問で布団に横になったとき、暗くなるといつも佐藤さんはまず、そして眠ってしまうまで、私の手の甲にキスをすることを繰り返す。
甘えん坊の王子のようにずっとずっと、単調に、しかし熱烈に私の手の甲にキスをすることを繰り返す。
時折独り言の発音で私に喋りかけたりもしながら。

「カトーさんの指は綺麗だね」
「爪がすべすべだ」
「カトーさんは優しいね、損してるよ」
「私なんかに捕まっちゃって」
「ねえ、カトーさん、髪は絶対伸ばしちゃダメだよ」

始終こんな調子で、キスをしながら答えを求めない独り言を彼女は繰り返す。

最初に一緒に寝ようといわれて、警戒しながら嫌々寝たとき、彼女のこの癖には酷く驚いた。
でも彼女は決して手の甲以外に口接けようとはしなかったし、たとえ熟睡していても最初に布団に入るときにあけた距離より私に近づいてくることはなかった。彼女は酷く寝相がいいのだった。

朝になって目覚めると横向きで私の手に頬をあてたまま胎児のように眠っている彼女の寝顔を見ることができる。もっとも、寝顔を見ていられる時間はそんなに長くはない。じっと見られていると第六感や何かで解るのか、彼女はすぐ目をぱちりと開けるからだ。
そして起きぬけに相応しくない真っ直ぐな視線とともに開口一番に発せられる言葉は毎回同じ、「おなかすいた」の一言。

明日の朝は何を作ってあげようかな……。
しめやかなキスを佐藤さんに繰り返されている右手で、私は明日料理を作ってエンピツを持ったりドアをあけたり靴を履いたりして日常を送る。
だから何だと言われれば困ってしまうのだけれど。
そのことを考えると酷く気恥ずかしい心持ちになるのだった。まあ、今こうしてキスされている状況のほうがよっぽど恥ずかしいといえばそうなのだけれど。

まずいなぁ、と思う。こういうのは、きっと、まずい。
いくら仲が良い友達だからって手の甲に一晩中キスし続けるのはやっぱりおかしいと思う。それを許すのもおかしいと思う。でもそうは思っても結局私はいつもされるがままに受け容れてしまう。
だって、佐藤さんが屈託なく笑ったのを初めて見てしまったあのときから、その鮮やかさをどうやって忘れたらいいのかわからなくなってしまったから。

……やはり、というかなんというか。いつもより情緒不安定の激しい今晩のキスは今までのものより念入りで熱烈で繊細だった。よっぽど酷い失恋をしたのだろう。もしくはそこに至るまでがよっぽど楽しくて安らげたのだろう。
可哀相に。
口には出さずに胸の中で呟く。

姿勢を仰向けから隣に向き合うようにして、なんとなく手を伸ばしてくしゃりと彼女の髪に手を入れてみる。
「どうしたの?」
暗闇のなか、顔をあげてこちらに向ける気配。
「別に」
二、三度髪をすくと彼女はもう私の手に気を留めずにただ不思議に思うような雰囲気を発したまま、いつもの行為に戻った。

私は彼女を慰める言葉を持たない。
厳しい言葉は全部自分に跳ね返ってくるし、優しい言葉は全部彼女を通り抜けていく。
世の中には悲しいことがある。
いくら本を読んで言葉を積んでも、いくら働いてお金を積んでも、いくら思索して時間を積んでも、いくら身体を差し出して性愛を積んでも、解決できない悲しいことが世の中にはある。

なんて思うのは、きっと私が割と諦めが良いほうだから。
彼女のように傷ついても傷ついても粘り強く探し求めつづけることなんて出来ない。

「何か考えてるの?」
「……うん?」
「難しい顔してる」
「暗いのにわかるの?」
「なんとなく」
「別に……何も考えてない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「……ていうか、珍しいね」
「何が?」
「こうやって暗くなってから会話が成立するの」
「そうね……」

何がおかしいのか嬉しいのか、彼女はくすくすと笑い出す。
手の甲にあたる抜けた吐息がくすぐったかった。
私は髪から手を離して、仰向けに戻る。
目を開けて天井を睨むと見えないはずの木目が見えた気がした。そういえば小さいとき、実家の天井の木目の模様が人の顔に見えたりして怖かった。今でも独りの夜には少し怖くなるのだけれど。

「ねえカトーさん」
「……?」
「もうちょっとそっちに行ってもいい?」
「……好きにすれば」
私が彼女の語尾の震えを聞き逃さなかったように彼女もきっと私の語尾の震えを聞き逃さなかっただろう。

「カトーさん、いい匂い」
「あなたはお酒臭いわね」
なはは、と彼女は笑って肩を揺らす。その震えが私の肩にも伝わってくる。

ピタリというほどではなく。
さわりというほどに私の身体にくっついた彼女は私の手を私の頬まで持ってきて、それで、頬にキスするように、でもたまたま頬と唇の間に手の甲があってしまったというように、また私の手にキスを繰り返す。

「……なんかそれ、変な気分になるんだけど」
「あはは、私も」
前髪がさわさわとこめかみのあたりに触れる。
「髪がくすぐったい」
「わたしもー」

「全くもう……」
はあ、とため息をついて左手で額と目を覆う。

その日は私のほうが寝付くのが早かった。


次の朝目覚めるといつもと少し様相が違った。
日は高くのぼっていて、午前中の授業はとっくに遅刻というかすでに終わろうとしている時間で、そして、隣で寝ているはずの人はいなくてもぬけの空だった。

なんとなく「してやられた」という気分だった。
昨日買い物にいったおかげで冷蔵庫の中身はけっこう豪華だったというのに。
布団の空いたスペースにはもう体温は残っていない。
書き置きなんてことをするような人でもない。
右手はいつもの私の右手で、弱気な王子の魔法の跡なんて無かった。
忘れものも何もなくて、彼女が昨日ここにいた証拠が全くなくて、私は未だに夢の中にでもいるような気分のまま部屋に取り残されている。

「……これでノルウェイ材の家具でもあったら完璧だったのに」
気の利かないセリフを独りごちてみても何も変わらない。

けれど、めがねをかけると部屋の隅でくしゃくしゃになっているハンドタオルを見つけることはできた。
それからは佐藤さんの化粧と香水の匂いがした。
私はなんとなく嬉しくなって、そして安心してそれを洗濯かごに投げ込んだ。
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