野良
遅くまで残りすぎたかもしれない。
薔薇の館から出ると月光に少し霞んだ青い影が伸びた。
「志摩子さん、どうしたの?」
自分の影をぼうっと見つめて歩みださない私に、不思議そうなしかしどこか案じる調子のある声がかけられた。そんな優しい声に、私の影はますます薄青く霞んでいくように思える。
「……少し思い出したことがあって。ちょっとだけだから、付き合ってくれる?」
——。
「いた」
体育館の裏。黒くて小さな影が琥珀のような二つの瞳を光らせている。
私が近づいていくとこちらの意図をはかりかねるようににゃあと一声だけ鳴いた。
「野良猫?」
「そうなの。もうだいぶ前からここに住み着いてるみたいで……」
「へえ」
乃梨子はごく自然に二、三歩小さな影に歩み寄り、おいでと言いながらしゃがみこんだ。
私はその臆することのない所作に驚く。
「この子、名前あるの?」
「……ゴロンタ、っていうの」
その名前を口に出すと胸がざわざわと波立つ。
「あはは、変な名前。志摩子さんがつけたの?」
「……いいえ」
「ふうん……?」
私の返答の雰囲気にどこかひっかかるものを感じたのか、乃梨子は一瞬考えるような表情でこちらを振り返ったがまたすぐに前に顔を戻した。
「ゴロンタ。ゴロンタ、おいで。ゴロンタ」
乃梨子がすっと手を伸ばすと、ゴロンタはおずおずとだがその手に向かって歩いていく。
「よし。いい子。怖がらずにもっとおいで」
ゴロンタはまたにゃあと一声だけ鳴くと、つとつとと歩み寄って伸ばされた手に体をこすりつけるようにした。
「……この子、あんまり人に懐かないのよ」
「そうなの?」
「ええ。私にも懐いてないし……。すごいわ。きっと乃梨子が優しい子だってことがわかったんでしょうね」
「そ、そんなことないと思うけどっ……」
照れ隠しなのか乃梨子はわたわたとゴロンタを抱き寄せて、はい志摩子さんっと言ってなぜかこちらに差し出してくる。
「え?わ、わたしに抱っこしろってこと?」
「う、うん」
目が合ったゴロンタはなんだか憮然とした表情をしている。
「どうすればいいのかしら……」
「あ、この脇のあたりを手で持てば……」
「こう……?」
「うーん、もうちょっと深く抱え込んで。……うん、そうそう。って、あ、こら、暴れるな」
「きゃっ」
おぼつかない手つきでもたもたしている私にゴロンタは身の危険を感じたのか、暴れて手の中から逃げ出してしまった。そのままの勢いでトトトと物陰まで走っていくと、振り向きもせずに闇に紛れてしまう。
「逃げられちゃったね」
「そうね……。ごめんなさい」
「あ、いや、志摩子さんは悪くないと思うよ」
ゴロンタが走り去ったほうを二人でなんとなく見つめる。
「思い出したことって、あの猫のことだったの?」
「ええ……。元気にしてるのかなって、そう思って」
「そっか。元気そうで良かったね」
こくりと私は頷いて帰りましょうかと乃梨子を促した。
また青い影が伸びている。
歩きながら私はそれをまたぼうっと眺める。
「…ま…さん」
「……」
「志摩子さんってば」
「……え?あ、な、何?」
しっかりしてよという風に苦笑しながら乃梨子は口を開く。
「また、ゴロンタの様子見に行こうね」
「ええ……。でもどうして?」
「うーん……。野良にもひとりじゃないってことを教えてあげようかと思って」
「……どういう意味かしら」
「志摩子さんみたいに心配してくれる人がいるってこと、あの子にもわからせてあげないと。じゃないとなんだか損してる気分にならない?」
私はきょとんとした後に、ぷっと小さく吹きだしてしまった。
「ちょ、ちょっと志摩子さん、別に笑うところじゃないよ」
「ご、ごめんなさい……。でも乃梨子らしいなぁと思って」
「そうかなぁ」
おかっぱ頭をぽりぽりとかきながら、乃梨子は納得のいかなそうな表情をする。
「うふふ。そうね、じゃあまた二人で、思い出したらゴロンタの様子見に行きましょう」
「うん。今度行くときは購買のパンでも買っていこうか」
「パックの牛乳は?」
「あ、それいいかも」
二人でゴロンタのことを相談しながらゆっくりとバス停まで歩いた。
私は乃梨子と別れるまで、今度はさっきのように自分の影を意識することはなかった。
バスの座席で揺られながらそっと目を閉じてまぶたの裏に乃梨子の顔を思い描いて、ありがとうと呟く。
どうかこれからも私を見て。
そして私を見ていることを私にわからせて。
お腹の上に置いた両手をぐっと握り締める。
大丈夫。私は私の手にうまく力をこめることができる。
薔薇の館から出ると月光に少し霞んだ青い影が伸びた。
「志摩子さん、どうしたの?」
自分の影をぼうっと見つめて歩みださない私に、不思議そうなしかしどこか案じる調子のある声がかけられた。そんな優しい声に、私の影はますます薄青く霞んでいくように思える。
「……少し思い出したことがあって。ちょっとだけだから、付き合ってくれる?」
——。
「いた」
体育館の裏。黒くて小さな影が琥珀のような二つの瞳を光らせている。
私が近づいていくとこちらの意図をはかりかねるようににゃあと一声だけ鳴いた。
「野良猫?」
「そうなの。もうだいぶ前からここに住み着いてるみたいで……」
「へえ」
乃梨子はごく自然に二、三歩小さな影に歩み寄り、おいでと言いながらしゃがみこんだ。
私はその臆することのない所作に驚く。
「この子、名前あるの?」
「……ゴロンタ、っていうの」
その名前を口に出すと胸がざわざわと波立つ。
「あはは、変な名前。志摩子さんがつけたの?」
「……いいえ」
「ふうん……?」
私の返答の雰囲気にどこかひっかかるものを感じたのか、乃梨子は一瞬考えるような表情でこちらを振り返ったがまたすぐに前に顔を戻した。
「ゴロンタ。ゴロンタ、おいで。ゴロンタ」
乃梨子がすっと手を伸ばすと、ゴロンタはおずおずとだがその手に向かって歩いていく。
「よし。いい子。怖がらずにもっとおいで」
ゴロンタはまたにゃあと一声だけ鳴くと、つとつとと歩み寄って伸ばされた手に体をこすりつけるようにした。
「……この子、あんまり人に懐かないのよ」
「そうなの?」
「ええ。私にも懐いてないし……。すごいわ。きっと乃梨子が優しい子だってことがわかったんでしょうね」
「そ、そんなことないと思うけどっ……」
照れ隠しなのか乃梨子はわたわたとゴロンタを抱き寄せて、はい志摩子さんっと言ってなぜかこちらに差し出してくる。
「え?わ、わたしに抱っこしろってこと?」
「う、うん」
目が合ったゴロンタはなんだか憮然とした表情をしている。
「どうすればいいのかしら……」
「あ、この脇のあたりを手で持てば……」
「こう……?」
「うーん、もうちょっと深く抱え込んで。……うん、そうそう。って、あ、こら、暴れるな」
「きゃっ」
おぼつかない手つきでもたもたしている私にゴロンタは身の危険を感じたのか、暴れて手の中から逃げ出してしまった。そのままの勢いでトトトと物陰まで走っていくと、振り向きもせずに闇に紛れてしまう。
「逃げられちゃったね」
「そうね……。ごめんなさい」
「あ、いや、志摩子さんは悪くないと思うよ」
ゴロンタが走り去ったほうを二人でなんとなく見つめる。
「思い出したことって、あの猫のことだったの?」
「ええ……。元気にしてるのかなって、そう思って」
「そっか。元気そうで良かったね」
こくりと私は頷いて帰りましょうかと乃梨子を促した。
また青い影が伸びている。
歩きながら私はそれをまたぼうっと眺める。
「…ま…さん」
「……」
「志摩子さんってば」
「……え?あ、な、何?」
しっかりしてよという風に苦笑しながら乃梨子は口を開く。
「また、ゴロンタの様子見に行こうね」
「ええ……。でもどうして?」
「うーん……。野良にもひとりじゃないってことを教えてあげようかと思って」
「……どういう意味かしら」
「志摩子さんみたいに心配してくれる人がいるってこと、あの子にもわからせてあげないと。じゃないとなんだか損してる気分にならない?」
私はきょとんとした後に、ぷっと小さく吹きだしてしまった。
「ちょ、ちょっと志摩子さん、別に笑うところじゃないよ」
「ご、ごめんなさい……。でも乃梨子らしいなぁと思って」
「そうかなぁ」
おかっぱ頭をぽりぽりとかきながら、乃梨子は納得のいかなそうな表情をする。
「うふふ。そうね、じゃあまた二人で、思い出したらゴロンタの様子見に行きましょう」
「うん。今度行くときは購買のパンでも買っていこうか」
「パックの牛乳は?」
「あ、それいいかも」
二人でゴロンタのことを相談しながらゆっくりとバス停まで歩いた。
私は乃梨子と別れるまで、今度はさっきのように自分の影を意識することはなかった。
バスの座席で揺られながらそっと目を閉じてまぶたの裏に乃梨子の顔を思い描いて、ありがとうと呟く。
どうかこれからも私を見て。
そして私を見ていることを私にわからせて。
お腹の上に置いた両手をぐっと握り締める。
大丈夫。私は私の手にうまく力をこめることができる。
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