姉のような
後ろから近づいてくる走者に負けないように懸命に足を動かす。でもその後ろの誰かはとても速くて。
追いつかれた——。そう悟った瞬間に、普段なら空気を切るだけの足元に何かが差し込まれた違和感。
「きゃっ」
その差し込まれた何かにつまずいて私はバランス崩した。急速に近づいてくる地面が今まさに転ぼうとしていることを示している。ちらりと視界に映った長い髪と高い身長。……可南子だ。
後ろからの走者・追いつかれた・足元の違和感・転ぶ私・走り去る可南子。
この一連の事実が導きだす経過は一つに思えた。
可南子の奴が足をひっかけたんだ。
転んで痛いとか怪我をしたとか血が出てるとか、そういうことを考える前にまず可南子に思考が行く。
今絶対足ひっかけた!
瞳子さん大丈夫だなんていうクラスメイトの声も殆ど耳に入らない。
昨日までとは違って放課後の体育祭の自主練習に参加していると思ったら。こんな人を転ばせようだなんて陰湿なことを考えて……!
痛いのやら悔しいのやら、転ばされただけでは感じないような自分でもよくわからない激しい憤りが胸の中を走り回る。グランドに倒れ伏して投げ出されている四肢をどうしようもない感覚が襲ってわななかせる。横からしゃしゃりでてきて抜かしていくだけでなく足までひっかけて……! いつもいつも! そしてまただ!
御しがたく荒れ狂う感情のままキッと顔をあげると、意外にも困ったような表情でいる可南子と目が合った。
——なんだ。
わざと転ばせてみっともない様を見ようっていう魂胆ではないのか。
まあ冷静になって考えてみればそこまで積極的な悪意があるほうが不自然かもしれない。どうかしてるかな、私。
少し拍子抜けしたけど一度煮えたぎってしまった感情を今更冷ますことはできない。それに故意ではなかろうが転ばされた事実には変わりない。悪いのは向こう。おろおろするクラスメイトを横目に可南子を射るようにギリギリと睨みつけた。
最初は自分のしてしまったことにただ当惑していただけの可南子だったが、私の敵意に煽られたのか徐々に不機嫌そうな表情になってくる。
転んだままの姿勢で噛み付くように見上げる私と眉間に皺を寄せながら見下ろす可南子。9月のまだ強さを失っていない陽光がお互いの顔を横から照らして陰影を作り、表情の険に磨きをかける。
ちりちりと肌が焼けるのを感じるのは日差しのせいか視線のせいか。
「ったくもおー。まぁたあんた達は……」
一触即発の緊張感を破ったのは呆れ顔で私達の間に割って入った乃梨子さんだった。
「今度はいったい何?」
溜息をつきながらもちゃんと事情を聞いてくるあたり、彼女らしいし頼りになる。おかっぱに注がれるクラスメイトの視線がそう語っていたし私も同感だった。
「乃梨子さん聞いてくださる私が走ってる途中に可南子さんが足を引っ掛けてきてそれで私転んでしまって」
「……わざとじゃない」
ボソッとつっこまれる可南子の発言が私の神経を逆撫でする。
「なんですってあなたねえ言うに事欠いてわざとじゃないってわざとじゃなけりゃ許されるとでも思って」
「誤解を誘うような言い方はしないで」
「……ッ! だいたいあなたが強引なコースのとりかたをするからっ」
「あーはいはい。おおよその事情はわかった」
更に険悪になりかけた雰囲気を白薔薇のつぼみはばっさりと切り取る。
「まず瞳子。もうちょっと冷静になりなさい。こういう練習をしてるんだから少なからずあることでしょ?」
「……」
その言葉を聞いて可南子はふん、と勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
なんて憎らしい。
「可南子も。ひっかけちゃったのは事実みたいだしちゃんと謝りなよ」
いまいましそうにしながらも乃梨子の言うことに一理あると思ったのか。
「……ごめん」
しぶしぶ可南子は謝った。
「でもほんとにわざとじゃないから」
「こら、一言多いよ」
「何度もおっしゃらなくてもそれはわかりましたわ。次からはよーっく気をつけてくださいね!」
「瞳子も!」
可南子はつんとすましながら、成り行きを見守っていたクラスメイトのほうへ戻った。
「ほんっとにもーあんたら二人は」
「あんなのと一緒にしないで下さるっ」
不快なもやもやはまだ胸の中にあったが、いつまでもごねていられない。
立ち上がって同じくクラスメイトのほうに戻ろうとしたが……。
「痛ッ……!」
さっきひっかけられた時にどこかひねったのだろうか。立ち上がることができない。
「ちょっと、大丈夫?」
「足首が痛くて……」
「見せて」
短くそう言うと乃梨子さんは私の靴下をずりさげて足首を露出させた。
「わ、けっこう腫れてる。これじゃ立てなくてあたりまえだよ。保健室に行こう」
確かに右のくるぶしのあたりがぽっこりと腫れて膨らんでいる。
乃梨子さんはクラスメイトのほうに練習再開しといてと伝えると、私の横に跪いた。
膝の裏に差し込まれる左腕と、背の下あたりに回される右腕。
「え……?」
「よっこいせっと」
掛け声はいささかロマンチックではなかったが、それは正真正銘「お姫さま」という形容がつく抱きかかえ方だった。
「ちょ、ちょっとちょっと乃梨子さん!?」
「何よ。ただでさえ重いんだから暴れないでよ」
重いって……。なかなかずっしり来る言葉だが今はそれより大事な質問がある。
「どどどどうしてこんな恥ずかしいみっともないっ」
「うるさいなぁ。どうせ歩けないんだからこれが簡単でいいじゃん。私はリリアン生え抜きのお嬢様がたと違ってわりと力あるし、保健室くらいまで大丈夫だよ。重いけど。」
……どうも考え方がずれてるようだ。ていうか2回も重いだなんて花も恥らう乙女に向かって……!
ああダメだ、私のほうもずれてる。
ぷらぷらと揺れる足が不安なのに、肩の横に感じる温かくて柔らかい胸の感触がそれを打ち消すくらいの安心感……と同時に羞恥心をもたらす。すれ違う生徒達の視線がすごく恥ずかしくて、それでもやっぱり密着した乃梨子さんの鼓動は気持ちよくて、降りるとか肩を貸してくれるだけでいいとか、そんな一言を口に出せなかった。薄い体操着一枚しか隔てないだけでこんなにも胸が高鳴ってしまうものなのだろうか?ただのクラスメイトのはずなのに。乃梨子さんは実利的だからという理由だけでこの運び方を採用したに過ぎないであろうに。どうして私はこんなに?
保健室までの近くて遠い道のり。歩行にあわせて、鼓動にあわせて、揺れる体を私はバカみたいに硬く緊張させていた。もし手鏡があったらやっぱりバカみたいに緊張して赤くなっている表情がよく見れたと思う。
「失礼しまーす」
両手がふさがっている乃梨子さんははしたなくも足で扉をあけて保健室に入った。リリアン生え抜きのお嬢様方ではない、か……なるほどと少し苦笑してしまう。
養護教諭は席を外しているようだった。
「んしょっと」
また色気のない掛け声をあげて、乃梨子さんは私をベッドに横たえた。密着が離れてしまう。むしょうに名残りおしくて、離れぎわに気付かれないようにそっと鼻梁を腕にこすりつけた。
「……どうもありがとうございますわ」
「うん。重くて肩凝ったよ」
「優しいけどデリカシーはないんですのね」
三回目の重い発言に口元を引きつらせながら私は精一杯の皮肉を言う。
「だって実際重いし」
「だからって、そんなに何回も何回もっ」
「あれ、気にしてたの?でも志摩子さんはもっとかる……いやなんでもない」
「……聞かなかったことにしますわ」
無駄口を叩きながらも乃梨子さんは冷凍庫から氷を取り出してビニル袋につめ、タオルを巻いた足首にあてがうという応急処置をこなす。
「はい、取りあえずできあがり。先生呼んでくるからちょっと待ってて」
「……乃梨子さん、ご兄弟はいらして?」
保健室を出ていこうとする乃梨子さんを呼び止める。なんとなくこのまますぐには行ってほしくなかった。
「へ?妹がいるけど?」
「わかる気がしますわ……」
「そう?まあよく言われるけど。じゃ、行ってくる」
それ以上引き止める話題をもたない私は彼女の姿を見送るしかなかった。
腫れて熱くなった足首に冷たい氷の感触が気持ちいい。
そう、熱くなっているときには少し冷たいものが心地良いのだ。最近は実感として本当によく分かる。
脱力して布団に頭を埋めるとさっきのやわらかい感触を思い出してドキドキしてしまった。
「乃梨子さん……か」
冷たいけど温かくもある不思議な感触の人。
祥子さまも祐巳さまも手のかかる人だと思う。自分が年上だったらとやきもきすることもあった。
でも、乃梨子さんは。
「どうして同い年なのかしら……」
来年以降、祥子さまや祐巳さまとは逆の意味でやきもきさせられるかもしれない。
「瞳子?」
「ひゃあ!?」
「何をそんなにびっくりしてんのよ」
ひょいと保健室の入り口から顔をのぞかせた乃梨子さんが呆れた様子でこちらを窺っている。
「い、いえ。お早いお戻りでしたのね」
「あのね、今先生いないらしいから。酷いようだったら勝手に病院行けだってさ」
「そう、ですか」
「わかってたことだけど、こういうとこ案外いい加減な学校だよねえ。それにしても瞳子。また祐巳さまがらみ?ボーッとしちゃってさ。そんなんだから転んじゃうんだよ」
「……大きなお世話ですッ!それに紅薔薇のつぼみは関係ありません」
ほんとに関係ないのに、乃梨子さんはどうかなぁとか言いながらからかうように笑っている。意地悪だと言ってやろうと思ったけど、近寄ってきて足首の様子を見てくれたりなんかするからそんな言葉は萎んでしまった。
「ん、マシになってるね。でもまだ腫れは大きいから、病院は大丈夫そうだけど練習は休んだら」
「そうしますわ……」
乃梨子さんが私の足をいたわるようにそっと触って、真剣に検分してくれたのが嬉しかった。
「私も今日はもう練習はいいや。瞳子運んだら疲れちゃった」
わざとらしくウーンと唸りながら腕を伸ばしたり、腰を叩いたりする。
「……重かったから、かしら?」
「よっくわかってるじゃない」
ニヤリといたずらっぽい、いつも教室で見せることのない笑みにまた少し胸が高鳴った。こんな表情は、もしかしたら私にしか見せてないんじゃないだろうか?
そんな自惚れと期待。
でも、私は自身のそんな感情に諦めをつけるために次の質問をする。
「白薔薇さまとはうまくいってらして?」
乃梨子さんはどうして唐突にそんなことを聞くのかと目を丸くしている。しかし彼女には意味不明であろう私の思考回路は、当たり前だが私にとってはすごく解りやすくてシンプルなものだ。
「うまくいってないと思う?」
「……いいえ」
そう答えると乃梨子さんははにかみながらにっこりと大きな笑みの花を咲かせた。私も釣られて笑みの形に口の端をあげたけど、それはどこか苦笑を含む形になってしまう。
「まあ、瞳子も頑張っていいお姉さま見つけなよ」
「……そうですわね」
少し躊躇ってから言うとその一瞬の空白を勘違いしたのか乃梨子さんは。
「あ、もう見つけてはいるのかな。じゃあ訂正、頑張って作りなよ。誰かに負けないようにね」
「……」
ほんとにこの人は……なんだか少し腹が立ってきた。
すこしいたずらをしてやろう。
それに少しわからせてやろう。
意を決してベッドの脇の丸椅子に座っている乃梨子さんの手をとる。きょとんとしている隙に、その手をおもいっきり引き寄せて体をこちらに倒させた。
「わ、瞳子っ」
ベッドに手をついてあわてる彼女の体をさらに引き寄せて腰をギュっと抱き締め、素早く唇を奪った。
「ん……」
「……!?」
それは一瞬だけのできごと。
すぐに乃梨子さんは抵抗したし、私は抵抗に対して抵抗を重ねることはしなかった。
二人の体はすぐに離れる。半ば私が突き飛ばされるようにして。
「な、何して——!」
「乃梨子さんがあまりに鈍感で無防備だから。あと、ここまで運んでくれたお礼ですわ」
「そ、そんな、だって瞳子は——」
うろたえる白薔薇のつぼみに私は不敵な笑みを返した。
不敵、に見えただろうか。かなり危うい均衡の上に成り立った笑顔だけれど。
「……私、帰る」
しばらく考え込んでいた乃梨子さんだがそれだけ無愛想に言うと保健室を立ち去った。
「……嫌われちゃったかな?」
私は一人ごちて窓からグランドのほうを見遣った。
西日は夕日へと変わろうとしていて、体育祭の練習を続ける生徒達の長い影を作り出していた。
私は室内の自分の影に視線を戻す。
いつも気合を入れてセットしてくる髪形が滑稽に歪んで映っていた。歪んだのはいつだろう。昼休みにはもう歪んでいたのかもしれないし、練習のときかもしれないし、転んだときかもしれないし、胸に抱かれていたときかもしれないし、ベッドに横たわったときかもしれないし、今さっきかもしれない。
或いは本当は歪んでなくて影だけが歪んで見えているのかもしれない。
わからなかった。
追いつかれた——。そう悟った瞬間に、普段なら空気を切るだけの足元に何かが差し込まれた違和感。
「きゃっ」
その差し込まれた何かにつまずいて私はバランス崩した。急速に近づいてくる地面が今まさに転ぼうとしていることを示している。ちらりと視界に映った長い髪と高い身長。……可南子だ。
後ろからの走者・追いつかれた・足元の違和感・転ぶ私・走り去る可南子。
この一連の事実が導きだす経過は一つに思えた。
可南子の奴が足をひっかけたんだ。
転んで痛いとか怪我をしたとか血が出てるとか、そういうことを考える前にまず可南子に思考が行く。
今絶対足ひっかけた!
瞳子さん大丈夫だなんていうクラスメイトの声も殆ど耳に入らない。
昨日までとは違って放課後の体育祭の自主練習に参加していると思ったら。こんな人を転ばせようだなんて陰湿なことを考えて……!
痛いのやら悔しいのやら、転ばされただけでは感じないような自分でもよくわからない激しい憤りが胸の中を走り回る。グランドに倒れ伏して投げ出されている四肢をどうしようもない感覚が襲ってわななかせる。横からしゃしゃりでてきて抜かしていくだけでなく足までひっかけて……! いつもいつも! そしてまただ!
御しがたく荒れ狂う感情のままキッと顔をあげると、意外にも困ったような表情でいる可南子と目が合った。
——なんだ。
わざと転ばせてみっともない様を見ようっていう魂胆ではないのか。
まあ冷静になって考えてみればそこまで積極的な悪意があるほうが不自然かもしれない。どうかしてるかな、私。
少し拍子抜けしたけど一度煮えたぎってしまった感情を今更冷ますことはできない。それに故意ではなかろうが転ばされた事実には変わりない。悪いのは向こう。おろおろするクラスメイトを横目に可南子を射るようにギリギリと睨みつけた。
最初は自分のしてしまったことにただ当惑していただけの可南子だったが、私の敵意に煽られたのか徐々に不機嫌そうな表情になってくる。
転んだままの姿勢で噛み付くように見上げる私と眉間に皺を寄せながら見下ろす可南子。9月のまだ強さを失っていない陽光がお互いの顔を横から照らして陰影を作り、表情の険に磨きをかける。
ちりちりと肌が焼けるのを感じるのは日差しのせいか視線のせいか。
「ったくもおー。まぁたあんた達は……」
一触即発の緊張感を破ったのは呆れ顔で私達の間に割って入った乃梨子さんだった。
「今度はいったい何?」
溜息をつきながらもちゃんと事情を聞いてくるあたり、彼女らしいし頼りになる。おかっぱに注がれるクラスメイトの視線がそう語っていたし私も同感だった。
「乃梨子さん聞いてくださる私が走ってる途中に可南子さんが足を引っ掛けてきてそれで私転んでしまって」
「……わざとじゃない」
ボソッとつっこまれる可南子の発言が私の神経を逆撫でする。
「なんですってあなたねえ言うに事欠いてわざとじゃないってわざとじゃなけりゃ許されるとでも思って」
「誤解を誘うような言い方はしないで」
「……ッ! だいたいあなたが強引なコースのとりかたをするからっ」
「あーはいはい。おおよその事情はわかった」
更に険悪になりかけた雰囲気を白薔薇のつぼみはばっさりと切り取る。
「まず瞳子。もうちょっと冷静になりなさい。こういう練習をしてるんだから少なからずあることでしょ?」
「……」
その言葉を聞いて可南子はふん、と勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
なんて憎らしい。
「可南子も。ひっかけちゃったのは事実みたいだしちゃんと謝りなよ」
いまいましそうにしながらも乃梨子の言うことに一理あると思ったのか。
「……ごめん」
しぶしぶ可南子は謝った。
「でもほんとにわざとじゃないから」
「こら、一言多いよ」
「何度もおっしゃらなくてもそれはわかりましたわ。次からはよーっく気をつけてくださいね!」
「瞳子も!」
可南子はつんとすましながら、成り行きを見守っていたクラスメイトのほうへ戻った。
「ほんっとにもーあんたら二人は」
「あんなのと一緒にしないで下さるっ」
不快なもやもやはまだ胸の中にあったが、いつまでもごねていられない。
立ち上がって同じくクラスメイトのほうに戻ろうとしたが……。
「痛ッ……!」
さっきひっかけられた時にどこかひねったのだろうか。立ち上がることができない。
「ちょっと、大丈夫?」
「足首が痛くて……」
「見せて」
短くそう言うと乃梨子さんは私の靴下をずりさげて足首を露出させた。
「わ、けっこう腫れてる。これじゃ立てなくてあたりまえだよ。保健室に行こう」
確かに右のくるぶしのあたりがぽっこりと腫れて膨らんでいる。
乃梨子さんはクラスメイトのほうに練習再開しといてと伝えると、私の横に跪いた。
膝の裏に差し込まれる左腕と、背の下あたりに回される右腕。
「え……?」
「よっこいせっと」
掛け声はいささかロマンチックではなかったが、それは正真正銘「お姫さま」という形容がつく抱きかかえ方だった。
「ちょ、ちょっとちょっと乃梨子さん!?」
「何よ。ただでさえ重いんだから暴れないでよ」
重いって……。なかなかずっしり来る言葉だが今はそれより大事な質問がある。
「どどどどうしてこんな恥ずかしいみっともないっ」
「うるさいなぁ。どうせ歩けないんだからこれが簡単でいいじゃん。私はリリアン生え抜きのお嬢様がたと違ってわりと力あるし、保健室くらいまで大丈夫だよ。重いけど。」
……どうも考え方がずれてるようだ。ていうか2回も重いだなんて花も恥らう乙女に向かって……!
ああダメだ、私のほうもずれてる。
ぷらぷらと揺れる足が不安なのに、肩の横に感じる温かくて柔らかい胸の感触がそれを打ち消すくらいの安心感……と同時に羞恥心をもたらす。すれ違う生徒達の視線がすごく恥ずかしくて、それでもやっぱり密着した乃梨子さんの鼓動は気持ちよくて、降りるとか肩を貸してくれるだけでいいとか、そんな一言を口に出せなかった。薄い体操着一枚しか隔てないだけでこんなにも胸が高鳴ってしまうものなのだろうか?ただのクラスメイトのはずなのに。乃梨子さんは実利的だからという理由だけでこの運び方を採用したに過ぎないであろうに。どうして私はこんなに?
保健室までの近くて遠い道のり。歩行にあわせて、鼓動にあわせて、揺れる体を私はバカみたいに硬く緊張させていた。もし手鏡があったらやっぱりバカみたいに緊張して赤くなっている表情がよく見れたと思う。
「失礼しまーす」
両手がふさがっている乃梨子さんははしたなくも足で扉をあけて保健室に入った。リリアン生え抜きのお嬢様方ではない、か……なるほどと少し苦笑してしまう。
養護教諭は席を外しているようだった。
「んしょっと」
また色気のない掛け声をあげて、乃梨子さんは私をベッドに横たえた。密着が離れてしまう。むしょうに名残りおしくて、離れぎわに気付かれないようにそっと鼻梁を腕にこすりつけた。
「……どうもありがとうございますわ」
「うん。重くて肩凝ったよ」
「優しいけどデリカシーはないんですのね」
三回目の重い発言に口元を引きつらせながら私は精一杯の皮肉を言う。
「だって実際重いし」
「だからって、そんなに何回も何回もっ」
「あれ、気にしてたの?でも志摩子さんはもっとかる……いやなんでもない」
「……聞かなかったことにしますわ」
無駄口を叩きながらも乃梨子さんは冷凍庫から氷を取り出してビニル袋につめ、タオルを巻いた足首にあてがうという応急処置をこなす。
「はい、取りあえずできあがり。先生呼んでくるからちょっと待ってて」
「……乃梨子さん、ご兄弟はいらして?」
保健室を出ていこうとする乃梨子さんを呼び止める。なんとなくこのまますぐには行ってほしくなかった。
「へ?妹がいるけど?」
「わかる気がしますわ……」
「そう?まあよく言われるけど。じゃ、行ってくる」
それ以上引き止める話題をもたない私は彼女の姿を見送るしかなかった。
腫れて熱くなった足首に冷たい氷の感触が気持ちいい。
そう、熱くなっているときには少し冷たいものが心地良いのだ。最近は実感として本当によく分かる。
脱力して布団に頭を埋めるとさっきのやわらかい感触を思い出してドキドキしてしまった。
「乃梨子さん……か」
冷たいけど温かくもある不思議な感触の人。
祥子さまも祐巳さまも手のかかる人だと思う。自分が年上だったらとやきもきすることもあった。
でも、乃梨子さんは。
「どうして同い年なのかしら……」
来年以降、祥子さまや祐巳さまとは逆の意味でやきもきさせられるかもしれない。
「瞳子?」
「ひゃあ!?」
「何をそんなにびっくりしてんのよ」
ひょいと保健室の入り口から顔をのぞかせた乃梨子さんが呆れた様子でこちらを窺っている。
「い、いえ。お早いお戻りでしたのね」
「あのね、今先生いないらしいから。酷いようだったら勝手に病院行けだってさ」
「そう、ですか」
「わかってたことだけど、こういうとこ案外いい加減な学校だよねえ。それにしても瞳子。また祐巳さまがらみ?ボーッとしちゃってさ。そんなんだから転んじゃうんだよ」
「……大きなお世話ですッ!それに紅薔薇のつぼみは関係ありません」
ほんとに関係ないのに、乃梨子さんはどうかなぁとか言いながらからかうように笑っている。意地悪だと言ってやろうと思ったけど、近寄ってきて足首の様子を見てくれたりなんかするからそんな言葉は萎んでしまった。
「ん、マシになってるね。でもまだ腫れは大きいから、病院は大丈夫そうだけど練習は休んだら」
「そうしますわ……」
乃梨子さんが私の足をいたわるようにそっと触って、真剣に検分してくれたのが嬉しかった。
「私も今日はもう練習はいいや。瞳子運んだら疲れちゃった」
わざとらしくウーンと唸りながら腕を伸ばしたり、腰を叩いたりする。
「……重かったから、かしら?」
「よっくわかってるじゃない」
ニヤリといたずらっぽい、いつも教室で見せることのない笑みにまた少し胸が高鳴った。こんな表情は、もしかしたら私にしか見せてないんじゃないだろうか?
そんな自惚れと期待。
でも、私は自身のそんな感情に諦めをつけるために次の質問をする。
「白薔薇さまとはうまくいってらして?」
乃梨子さんはどうして唐突にそんなことを聞くのかと目を丸くしている。しかし彼女には意味不明であろう私の思考回路は、当たり前だが私にとってはすごく解りやすくてシンプルなものだ。
「うまくいってないと思う?」
「……いいえ」
そう答えると乃梨子さんははにかみながらにっこりと大きな笑みの花を咲かせた。私も釣られて笑みの形に口の端をあげたけど、それはどこか苦笑を含む形になってしまう。
「まあ、瞳子も頑張っていいお姉さま見つけなよ」
「……そうですわね」
少し躊躇ってから言うとその一瞬の空白を勘違いしたのか乃梨子さんは。
「あ、もう見つけてはいるのかな。じゃあ訂正、頑張って作りなよ。誰かに負けないようにね」
「……」
ほんとにこの人は……なんだか少し腹が立ってきた。
すこしいたずらをしてやろう。
それに少しわからせてやろう。
意を決してベッドの脇の丸椅子に座っている乃梨子さんの手をとる。きょとんとしている隙に、その手をおもいっきり引き寄せて体をこちらに倒させた。
「わ、瞳子っ」
ベッドに手をついてあわてる彼女の体をさらに引き寄せて腰をギュっと抱き締め、素早く唇を奪った。
「ん……」
「……!?」
それは一瞬だけのできごと。
すぐに乃梨子さんは抵抗したし、私は抵抗に対して抵抗を重ねることはしなかった。
二人の体はすぐに離れる。半ば私が突き飛ばされるようにして。
「な、何して——!」
「乃梨子さんがあまりに鈍感で無防備だから。あと、ここまで運んでくれたお礼ですわ」
「そ、そんな、だって瞳子は——」
うろたえる白薔薇のつぼみに私は不敵な笑みを返した。
不敵、に見えただろうか。かなり危うい均衡の上に成り立った笑顔だけれど。
「……私、帰る」
しばらく考え込んでいた乃梨子さんだがそれだけ無愛想に言うと保健室を立ち去った。
「……嫌われちゃったかな?」
私は一人ごちて窓からグランドのほうを見遣った。
西日は夕日へと変わろうとしていて、体育祭の練習を続ける生徒達の長い影を作り出していた。
私は室内の自分の影に視線を戻す。
いつも気合を入れてセットしてくる髪形が滑稽に歪んで映っていた。歪んだのはいつだろう。昼休みにはもう歪んでいたのかもしれないし、練習のときかもしれないし、転んだときかもしれないし、胸に抱かれていたときかもしれないし、ベッドに横たわったときかもしれないし、今さっきかもしれない。
或いは本当は歪んでなくて影だけが歪んで見えているのかもしれない。
わからなかった。
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