Ci-en

 

booth

mesh

夜中にふと目が覚めて。
眠れなくなった。
暗くて冷たい夜気と漠然とした白い不安が心身にしみこんできたから。
長い夜が過ぎて明けていく外の雰囲気を寝床でぼうっと感じながらも、母が心配して起こしにくるまで全く動くことができなかった。
なんとか寝床から出た後も身体が重くて仕方なかったけれど習慣に従うままに登校した。

しかしやっぱり寝不足が祟ったのか一時間目が始まらないうちに祐巳さんに顔色が悪いと指摘され半ば無理矢理に保健室に連れて行かれてベッドに押し込められた。

そして今は授業中。
保健室の窓から空を眺めている。
ガラス越しに入ってくる光は強いが少しかすんで見える。
体育をしているクラスの声援がわずかに部屋に響く。
まるで夢の中の遠い国の言葉のように聞こえる。

——ここはどこだろう。
白いシーツと毛布に包まれながらふと疑問に思う。
教室、並べられたたくさんの椅子。みんながいる場所。
保健室、並べられた二つのベッド。みんながいるべきでない場所……。

そこまで連想してやめた。
続きを考えてもますます遣りようのない気持ちだけが募ると思ったからだ。

やっぱり疲れているんだ。どうかしている。眠ってしまおう——。
そう思って目を閉じる。

……けれどダメだった。
目蓋を閉じても暗闇にはならない。窓を通して入ってくる陽光が目の裏でチカチカする。普段はありがたいはずの日の光も今は気分をささくれ立たせる厄介なものでしかなかった。カーテンを閉めようかとも思ったが、一度横たえた体を再び起こすのは酷く億劫だった。

小さく溜息をついて、枕に顔を押し付けるようにしてうつ伏せになる。先生が保健室に帰ってきたら気付いてなんとかしてくれるかな。ぼんやりとした頭でそう考えた矢先にガラガラと引き戸が開く音がした。
誰かが入ってきたようだ。仕切りがあるためここからは見えないが。

——まあ誰でもいいか。
そう思って寝たフリをするために目を閉じた。入ってきたのが先生であったにしろ生徒であったにしろ、今は一言二言だけでも言葉を交わしたい気分ではない。特に白薔薇のつぼみとしての会話なんてまっぴらごめんだ。狸寝入りでやり過ごそう。

ぺたぺたと上履きがこすれる音がして、その誰かがこちらに歩いてくるのが感じられる。仕切りをめくる静かな音。開いている横のベッドを使う生徒かもしれない。予想通り、足音はさらに近くにまで来てやっと止まる。

……ふいに頭に柔らかな重みを感じた。
その重みは、髪をいたわるようにゆっくりと頭の上から下に動いていく。
重みが3回くらい頭を上下する運動を繰り返したあとに、やっとその重みが手のひらで、自分が頭を撫でられていることに気付いた。

「だれ……?」
「あ、起こしちゃった?ごめんね」
目を開けるとよく見知った顔があった。
「お姉さま……」

「ごきげんよう」
少しいたずらっぽく微笑しながら、小さな声でそっと囁くような挨拶。
「ごきげんよう、お姉さま」
うつ伏せになっていた体を戻してお姉さまを正面に捉える。逆光になっていて眩しい。
「あ、眩しいね」
お姉さまはすぐに気付いてカーテンを閉めてくれた。

「うーん、日光がなくなると顔色悪いのがよくわかるね。どうしたの?風邪?」
窓際から戻ってきたお姉さまは私が寝ているベッドに腰掛け、横向きに首だけをこちらに向けながら私の額に手をあてる。
「少し寝不足で……」
「そう。無理しちゃダメだよ」
額から前髪をかきあげるようにしてまた頭を撫でる。くすぐったいけど気持ちよくて、尖っていた心が丸く落ち着いていくのを感じた。

「お姉さまは、どうしてここに?」
「志摩子と一緒。私のは仮病だけど」
また少しいたずらっぽい笑みを見せると、頭を撫でていた手をそっと離し、耳を伝って下に降ろしていく。
「偶然だね。こんなところでこんな時間に会うなんて」
下顎の形をなぞっていくような指の動きは、猫をあやしている仕草を連想させた。

「ほんとに大丈夫なの?頬、冷たいよ」
お姉さまの指のさらさらとしたあたたかさを頬に感じる。
私はなんとなくその手に自分の両手を重ね、何かを訴えるように瞳を見上げた。

お姉さまは一瞬驚いたような表情をしていたが少し真剣になって私の瞳を見返す。
「志摩子……寒いの?」
たった一言のシンプルなその問いは抽象的なのにすごく的を射たもので、私は思わず首を縦に振っていた。

「じゃああっためてあげる。横、入るね」
「え……?あ、はい」
お姉さまはそう言うと多少強引に私の横に体を入れてくる。狭い一つのベッドに二人。私のからだは遠慮して少し脇に逃げようとしたが、生憎そんなスペースすらなかった。しかしいつにない距離にそうして戸惑うことができたのは数秒だけ、ベッドに完全に入ったお姉さまはすぐに私を抱き締めてきた。
お姉さまの豊かな胸に顔が埋まる形になる。

「こらこら、そんなに硬くならないでよ」
苦笑を含んだ声が頭のすぐ横で響く。
「だ、だって……」
「嫌じゃないでしょ?」
探るようにキュッ、キュッとリズムをつけて腕に力がこめられる。
はいと言って頷こうとしたら、ますます顔が胸に埋まって血がのぼってきてしまう。

「おや、冷たかった頬がもうあたたかくなってきたかな?」
一旦体を離してすりすりと頬擦りしながらお姉さまはからかう。確かに頬の感触がさっきとは逆に少し冷たくなっている。体温が上がっている証拠だ。

「……誰かきたらどうするんですか」
高ぶっていく意識を逸らすためのあまり重要ではない質問だが、誰かきたらどうするかをあまり重要だと思っていない自分の思考に少し驚きもする。
「んー、まあ、そのときはそのときだから」
私の意図を知っているのか、解答はおざなりなものだった。

背中をゆっくりと上下して撫でていく手の感触。思わず深い吐息をついてしまう。
「どう?あったかくなった?」
「……かなり」
私の声は胸のなかでくぐもるように響く。
「そう、それは良かった」

すぐ近くに感じる息遣い。合わさった体。お互いの鼓動。
「志摩子は柔らかいね」
「お姉さまこそ……」

回された腕に突如力が篭められる。それを疑問に思っていると、グルッと世界が回った。
「んしょ」
「きゃっ」
私を横に抱きかかえたまま、お姉さまは体を90度回転させた。
お姉さまの体の上に私の体が乗る形になる。

「お、重くないんですか」
「全然。軽いよ。もっと食べなくちゃダメだよ」
抱き締める力に重力が加わってさっきよりもさらに密着の度合いが高まった。
しかし完全に体を預けたことによってか、さっきまでの不必要な胸の高鳴りは徐々に消え、私は自然に頭を胸に置いて体の力を抜いていった。
誰もいない森のなかの湖面のような静寂が部屋に満ちる。

「つむじが見える」
髪に手を這わせ、どうでもいい報告をしてくるお姉さま。
「心臓の音が聞こえます」
お返しに鎖骨の下に「の」の字を書きながら当たり前のことを言うとくすくすと笑う声が聞こえた。

「このまま寝てもいいよ」
優しく背と首筋をなでながらの甘い囁き。
「でも……」
「私に気をつかうことはないからね。本音をいうと、もっと抱き締めていたいから寝てほしいんだもの」

「お姉さまったら……」
よくそんなに恥ずかしいセリフを。
「こんな節操のない姉は嫌?」
「いいえ。本音を言うと私もこのまま眠ってしまいたいなぁ思ってました」
「あはは、じゃあ私達やっぱり似た者同士だね」
喋ると耳の上のほうで喉が、笑うとお腹が震えるのが感じられた。
「そうですね……本当に」

胸に抱かれるあたたかい感覚にたゆたいながら、私はゆっくりと目を閉じた。
飼い主の腕のなかで眠る仔猫はきっとこんな気分に違いない……。

————。
どれくらいの間眠っていたのだろうか。
薄ぼんやりした視界の左右にお姉さまの姿を探す。
「おはよう。よく眠ってたね」
すぐ横で声がして、振り向くと丸い椅子に座ってこちらを見下ろしているお姉さまと目が合った。
「いま、何時ですか?」
「もう昼休み終わっちゃったよ」
「そんなに……」
自分の家の自分の部屋以外で、そんなに眠ったのは実は初めてかもしれない。修学旅行なんかでもよく眠れなくて困った経験がある。

「志摩子、全然起きないんだもの。さすがに先生来るし、他の生徒の目もあるし、ベッドからは出ちゃった。ごめんね」
「いいえ、そんな……」
ただ側に居てくれただけで、それだけで。
言葉にするかわりにそっと手を伸ばす。お姉さまは何もいわずに握り返してくれた。

「寝起きで喉、渇いてない?」
「……少し」
「はい、これ」
スッと差し出されたペットボトルに手を伸ばしかけたが。
「あ、やっぱり気が変わった」
お姉さまはいたずらを思いついた子供のような表情でひょいと私の手をかわした。
「もう、お姉さま」
「飲ませてあげるね」
「え?」
「だから、飲ませてあげる」

お姉さまはペットボトルを軽くあおると自分の口の中に含み、間髪を入れずに私に唇を重ねた。
「んくッ……!」
驚く私を尻目にマウス・トゥー・マウスで流し込まれるスポーツ飲料。すぐに口の中がいっぱいになってどうしようもなくなって、私は喉を鳴らすしかなかった。
嚥下する音が妙に部屋に響いている気がする。

「こぼしちゃダメだよ……」
飲みきれずに口の端から垂れた分をお姉さまが指で拭き取り、その指を私の口元に差し出した。私は従うままに素直に指を口に含んで舐めとってから上目遣いに少し媚びるような視線を送る。

「……すごくイイ表情」
「ドキドキしました?」
「ゾクゾクしたよ」
「やった。私ばっかりドキドキさせられてたら、不公平ですもの」
お姉さまは今日何度目かになるいたずらっぽい笑みと苦笑とが混ざったような笑顔を見せ、私に軽く口づけた。


「どう?今日はいい夢見れそう?」
結局ペットボトルの中身が無くなるまでさっきの戯れを続けた後、お姉さまは朝ここに来たときのようにベッドに腰掛けて私の髪を撫でつけている。
「逆に眠れないかもしれません……。お昼寝もいっぱいしちゃったし」
「あはは、じゃあまた明日も保健室に来てみようかなぁ」
「……明日はミルクティーが良いです」
お姉さまは目を丸くする。
「ほんきぃ?」
「今度は、私のほうからお姉さまを抱き締めたい……」

「全く、変なところで負けず嫌いなんだからなぁ……」
「私も何かしてあげたいんです」
呆れるように言うお姉さまについ反抗したくなり、ぷいとそっぽを向いてやる。我ながら甘えた反応だし普段はできたものじゃないけど、今ならできる。
「はいはい、わかりましたよ……だからこっち向いて」

お姉さまは体を乗り出すと横向きの私の頬にキスをした。

振り向くまで、何度も何度も。
振り向いてからも、何度でも……。
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