白い桜

「私の世界には色がない」

そう聖は呟くように言ったのだった。
何をバカな。全くペシミストなんだから。と思った。そのときは。


しかし思えば、例えば江利子と聖と私と3人で出歩いて遊んだとき、聖の見たがる映画といえばB級のいわゆる「面白さ」があるものばかりだった。一方、江利子は意外にも芸術性の高い、映像美を表現した「美しさ」がある映画を見たがった。
聖はそんな映画は唾棄すべきものだと決めつけ、それならハリウッド映画を見るほうがマシだとさえ嘯いた。江利子は江利子でそんな低俗なものばかり見てるから頭がおめでたくなるのよと揶揄するし、映画については二人はいつだって深刻に対立した。
そんなこんなでいつしか3人で出歩くときに映画を見るという選択肢は消え、それは誰かの家でのビデオ鑑賞会という形に取って代わった。聖と江利子が一本ずつ映画を借りてきて、お互いに相手に攻撃するかのようにここがいいのよとばかりに画面を観る相手の顔色を窺い、感心させたほうが勝ち、という按配だ。全くバカな張り合いをするものだと思う。仲がいい証拠かもしれないけれど。
ちなみに勝敗のジャッジメントはいつも私の役目だった。
なぜなら私はどちらでも良かったからだ。二重の意味で。

しかし聖の選ぶ映画を観ていて気付いたことがある。
確かに、彼女の選ぶ映画には色がない。
別に白黒というわけではないのだけれど。江利子の選ぶものと対比させるから余計にそう思うのかもしれないけれど。聖の選んだものの中にある目を見張る面白さがあるシーンは、構図やアングルの面白さが殆どで、色彩の美しさが決定的に欠けていた。
派手な、スピード感のある、抜群のカメラワーク、決まった構図……ただし、単色の。

聖はもしかしたら本当のことを言っただけかもしれない。
なんて思ってしまう私はどうかしているのかもしれない。


「本当なの?」
「……何が」
「この前言ってた、色がないとかいう話」
「色……?」
聖は数瞬考えるように視線を泳がせたが、ああ、とポンと手を打つとあっはっは、とひとしきり笑った。

「蓉子、あんな話信じてたの?」
「信じてはいないけれど……」
「バカだなぁ。ほんとだったら信号とか見えるわけないじゃん。らしくないね。どうかしてるんじゃないの?」

確かに私はどうかしていているかもしれない。
でも、本当にどうなんだろう?
信号は、色がみえなくったって、周りの動きやライトの明暗だけで赤か青かわかるものではないだろうか?歩行者信号には人型のマークがあるし、普通の信号は青・黄・赤と順番に並んでいるし。
そういえば聖は並んで信号に立ったときに歩きはじめるのが遅くなかっただろうか?さっきの快活な笑い、そのなかにはいくらかの自嘲が潜んでいなかっただろうか?
気のせいだろうか。気のせいか。
……やっぱり私はどうかしているのかもしれない。



「綺麗な桜ねえ」
もうすぐ3年生の始業式を迎えようという春、満開に咲き誇るリリアンの桜並木を歩きながら江利子が呟くように言った。訪れた桜の季節。
どこか浮き足立つ私と江利子と比べ、聖は不機嫌だった。祥子の単に桜が嫌いだという不機嫌とは質の違う不機嫌さがそこにはあった。私はそれを心配して色々と世話を焼いたが、それは聖の不機嫌を助長させるだけで何の意味もなかった。私は空回りし、聖は殊更に不機嫌になり、江利子はただ傍観していた。

「そうね……綺麗」
「そうかなあ。私にはそう見えないけど」
江利子と私の桜に向けられた視線を捉えながら、聖は呟くように反論する。声の大きさや語調の硬さは控えめだったがその言葉のなかにはどこかイライラとしたトゲがあり、また私は少し悲しくなる。淡い色が、たくさんの花弁が、こんなにも美しいのに。どうして聖はそれを路傍の石を見るようないかにもつまらないという視線で見ているのだろう?

「……白がいっぱいだ」
少し立ち止まり、並木を見上げながら聖は確かにそう続けた。今度は苛立ちのない、透明な声色で。
白?
白、とは違う。桜のこの色は。白いとは言わない。

「バカねえ。ちゃんと見なさいよ」
江利子はただそれだけ言って、立ち止まった聖を置いてすたすたと薔薇の館に向かって歩いて行く。
私は中途半端な位置で立ち止まって聖を振り返る。
淡く色づいた花弁がひらひらと舞って彫像のような顔の下の胸元にかかった。

「聖」
花びらが、という言葉が続かなかった。
「……なに?」
いつまでたっても言葉を接がない私に聖はどこか苛立った様子で瞳を向ける。
「桜の色……」
私はやっとそれだけの言葉を紡ぎ出す。
「桜の色がどうかしたの」
「白い、の……?」

「……知りたい?」
私の言葉に応えて聖はよくわからないことを言う。
でも私はわかっているのかもしれない。
私は、
「私は」

「どちらでもいいなんて許さないよ」
聖の手が私の手を掴み、そのまま校舎と並木の陰に引っ張っていく。胸元の花弁がその拍子に落ちる。
それを私はぼうっと見ていた。

「色がどんなものかは知ってたんだけどね」
「痛い……ッ」
上背のある聖は私の肩に手を置いて校舎の壁に押し付ける。
「あの子が教えてくれたから」
「あの子、って……」
「でももうそれも忘れちゃったなあ!」

ギラギラとした野生の肉食動物のような瞳で聖は私を見据える。
「嫌なこと思い出させないでよ」
肩からずりずりと這い上がっていく指が、ひやりと冷たい指が、私の鎖骨と首をなぞって頬まで。
草食動物のように震える私はただ聖の口が歯が私の唇に立てられるのを見ているしかなかった。そして感じるしかなかった。

頬を抑える手は冷たくて重い。
逃げられないのではない。逃げようと思えば逃げられただろう。しかし殆ど単一の何かに支配されていく私の精神は逃げるという選択肢をただ忘れてしまっているのだ。

痛い。
唇に歯が立てられている。
ギリギリと限界に近づくように力が込められていく。
痛い、痛い、痛い、ああ、血が出るかもしれない……と思ったところでその力は緩められ、まるで流れ出たかもしれない架空の血と傷口をいたわり癒すような舌の愛撫に代わる。
「蓉子はかわいいねえ」

「せ、い……」
苦しい息のなか、私の口から細々とその名前が漏れ出す。
すると彼女は不快げに鼻を鳴らして唇を離し、覆い被さるようにしながら私の顔の横にダンッと両肘をつき、睫毛が触れ合うほど近づいた瞳で私の瞳を睨んだ。
「呼ばないでよ」
「……」
「見ないでよ。まぶたも閉じて。」
私は素直に従って目を瞑るしかなく、不安が増幅される闇の世界に身を落とす。
鋭敏になる触覚が冷たい空気の動きをちりちりとした肌の熱さとともに伝えてくる。

壁についている肘はそのままに、腕だけが扇のように下りていき私の後頭部をなでて首に回された。
その腕にぎゅっと力がこめられて数瞬後にやっと自分が抱き締められていると気付く。
自分も腕を回して抱き返すかどうか迷いつつも、意を決して腕を聖の身体に回す。すると聖はまた不快げに鼻を鳴らして私の耳たぶをかんだ。
「ぅ……あっ……」
そのまま舌が耳孔に入ってきて、もたらされるざわざわとした感覚に私の腕は垂れ下がってしまう。
「そう、蓉子は何もしなくていいの」
聖は断言する。
「こうして私に犯されるのが初めてじゃないからって勝手に慣れないでよ。回数を重ねればそれでいいと思ってる?そんなもの、何の役にも立たないのよ」

聖はさらに何かを言おうとしたが自分の長口上に自分で嫌気が差したのか、苛立ったように激しく唇を唇に突き当てた。
上唇、下唇、舌……。私の口のあらゆる部分が順々に吸われ、吸われながら舌で弄ばれ、弄ばれながらときどき歯を立てられる。
私の唇は、私は、私の精神は、徐々に聖に食べられていくようだった。

視界は暗く何も見えず、唇は塞がれ、耳は覆われ、鼻は腐り落ちた果実のような甘い匂いに震え、焼ける肌は湿った膜のようなもののなかに落ちていく。
私の五感が失われていく。

しかしそのとき確かに垣間見えたのだった。そのとき聖に触れられ聖に震えながら、瞼の裏に確かに垣間見えたのだった。
光のようなもの。それが明滅しているのを。

光?明滅?
違う。
それは、白だ。
暗い視界のなかを一瞬だけ塗り消すように現れるそれは光ではなくて白だった。
ただの白だった。

さっ、さっと横切るように白が通過していく。
聖に触れられている個所と対になるように白が現れては消える。
唇。肩。脇腹。腕。太股。
それぞれに対応するように現れる白。

美しいともなんとも言えなかった。
ただ白があるだけの単色の世界で、相対的に白という色を評価することができるだろうか?
ずくり、と身体の中心に悪寒が、そして視界の中心に白い線が立った。
ずくり、ずくり、ずくり。悪寒への震えにともなって白い線も幅を広げていく。
悪寒は恐怖に変化し、白い線は波のように揺らめきながら私の精神を塗りつぶしていく。

ずくり。
「……ああっ!」
一瞬あまりに大きく広がった白に顎を引きながら思わず目をあける。下向きの視界のなか、スカートが捲り上げられ剥き出しになった私の脚。その間に入れられている聖の手。
「や、やめ……ッ」
脚を閉じて訴えながら見上げると、そこには色のない瞳があった。
その瞳は私と今まで私の見てきた世界とを押し潰すような重さで圧し掛かってくる。
「……ッ」
私は脚の力を緩め、口を噤んでただ耐えた。

聖の指が私を弄ぶ。
少しでもその指から意識を逸らせるために、桜並木の方に視線を泳がせる。
すると。
「……!」
淡く色づいたはずの桜がただの白に、そしてその幹とそこから続く根と地面も白に見えた。

そんな、こんな、おかしい。
いやいやするように首を振って目を閉じても白の静止画になったそれは脳裏から離れてくれない。
そして聖の指の動きがその静止画の白に白を重ねていく。

白。
白、白、白。
白白白白白白白。
私には白の増殖を止めることはできなかった。
「聖……やめ、て……」
私はなんとか今まで見てきた色を思い出そうとするが、すぐに白が重ねられてしまう。これは、こんなことは、初めてのことだった。
「だ、め……」
「うるさい」
こうして白に白を重ねられて完全に白に塗りつぶされたとき、私の何かが決定的な変化を迎えるのではないか? そう恐怖して哀願しても聖はやめてくれなかった。

指が大きく動き、奥深くに達する。ずくりとした悪寒が恐怖が、白い高波が、やって来る。
「く、あっ……う、あぁ……!」

真っ白な世界に私は放り出された。


呆然と座り込み荒い息をつく私を前にして、苦いものを噛み潰したような表情をした聖は何か言うような素振りを見せた後、結局何も言わずに立ち去っていった。

私は壁にもたれかかったまままた桜を見上げる。
淡く色づいた桜。
さっき見た桜の白はいったいなんだったんだろう?
私は聖の精神を垣間見たのだろうか?身体を重ねることによって?……いや、そんな夢のようなことはきっとあり得ない。
だとすればあれはきっと私の中にもある風景なのだろう。
でも、どうして私の中にあんな風景があるのだろう?私が今まで見てきた色は何なのだろう?
私が今まで見てきた色は。そして私が今しがた見た色は。
どちらが本当でどちらが嘘なのだろう?
例えば周囲の人間の動作で信号の指している色がわかるように、他の色だって周囲の人間の動作でどんなものかわかりはしないだろうか?そういえばその色がその色であるという証明は脳の構造上不可能だということを昔聞いた。元々私達の色は共有された幻想なのだ。

ということは、やはり私の中にある色は

……そんなバカな。私が周囲の人間と違う人間であるのと同じように、聖ともまた違う。

座り込んだ日陰の地面の冷たさがスカート越しに徐々に伝わってくる。
「ん……」
私は立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。

まだ熱のくすぶる身体、それのせいなのか瞬きごとに現れる白く瞬く世界。

とりあえず、どちらだっていい。
白と色、どちらかに偏ったとして、どちらかが嘘だったとして、何か困ることがあるだろうか?
たとえ白く見えても、元々認識されていた色を知っていて強くそれを思えば、桜はほら、こんなにも美しく見える。
ような気がした。
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