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肝試し

「「肝試し?」」
険のある紅薔薇さまの声と戸惑ったような黄薔薇さまの声が重なった。二人の隣にいる白薔薇さまもきょとんとしたような表情を浮かべている。
対して、目を輝かせながら薔薇様達の反応を見ている黄薔薇のつぼみ、お姉さまの様子をちらちら窺うようにしている落ち着きのない紅薔薇のつぼみ、無表情で静かに目蓋を閉じながらお茶をすすっている白薔薇のつぼみ。
「そ、肝試し」
ニコニコとしながら黄薔薇のつぼみは同じ単語を再度繰り返した。

夏休みも終わり、本日は始業式。
薔薇の館の面々は始業式の後片付けや二学期に行われる行事の教師からの説明、その後のスケジューリングなどもあり、午後いっぱい学校に居残っていた。時刻は6時過ぎ。やっと仕事も終わりそろそろ帰ろうかというタイミングでの発言だった。

「楽しそうじゃない?」
「楽しそうって、由乃。今日はもう時間が遅いし、みんな疲れてるだろうし……」
「肝試しは時間が遅くないとできないじゃない」
「そりゃそうだけど……。いきなりそんなこと言われても困るよ。ねえ祥子」
またこの従妹は何を言い出すんだという多少呆れた表情で令は祥子に振った。

「……由乃ちゃん。私達は学校に遊びに来てるのではないのよ。いつまでも夏休み気分をひきずっていてはいけないわ」
「そうは言っても祥子さま。結局8月後半に入ってからは花寺と打ち合わせとか、始業式の準備とかでずーっと仕事仕事だったじゃないですか。新学期になって心機一転、改めて勉強に臨むためにもこのへんで息抜きしておいてもいいんじゃないでしょうか?」
まるであらかじめ用意されていたかのような論理的な発言にさすがの紅薔薇さまもふむと少し考えるようにして紅茶のカップに視線を落とす。

「……そうですね。少なくとも夏休みの気分をひきずって、という感じではないですね」
思わぬところからの発言に薔薇様達の視線が集まる。発言した当の本人の乃梨子は涼しい顔でそれを受け流していた。
「でしょでしょ?こんなに忙しい夏休みを送ったのに、少しの息抜きすら許されないなんてあんまりだわ」
援護射撃に由乃はますます調子づいて目を輝かせる。

「ね、祐巳さんもそう思うでしょ?」
「た、確かに今年の夏は今までよりずっと忙しかった、かなあ……」
お姉さまの様子を慮りながらの煮え切らない発言だが、祐巳も一応同意する。
「うーん」
令の困り声が天井に響いた。

「でも、どうして肝試しなの?」
流れ始めた微妙な雰囲気をなんとか引き戻そうと令はツッコミを入れた。或いは本能的に由乃の提案にきな臭いものを感じたのかもしれない。
「それは簡単。今すぐできるし、かかる時間も準備も大して必要ないし。二人一組で行けば人数的にもぴったり」
「二人一組……?」
「みんなでぞろぞろ行くわけないでしょ。それとも何?令ちゃんは私以外の誰かと行く気だっていうの?」

由乃の発言になんとなく各々が落ち着かない雰囲気を放ち出す。
誰ともなく「二人一組」と確認するように呟く声が聞こえた。
令は従妹の視線にたじたじとした表情で視線を泳がせ、祐巳と祥子はなんとなく見つめ合っている。志摩子も静かにすすっていた紅茶の音を濁らせて咳き込んだ。

…………………。
志摩子の咳き込む声が消えるとなんともいえない沈黙が部屋に満ちた。

「……やりましょう」
「さ、祥子ッ」
突然沈黙を破った祥子の発言に令がうろたえる。
「私も確かに息抜きも必要だと思っていたの」
「で、でも……」
「さすが祥子さま、柔軟な思考ができますねっ」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
「……令はどうしてそこまで反対するのかしら?」
「な、なんとなく……」
「正当な理由の無い反対は認められなくてよ」
「う……」

「じゃあ多数決をとりましょうか」
軍配は既に自分にありと思ったのか、満面の笑みを浮かべながら由乃は言い放った。
「そうね」
祥子も首肯する。

「は、反対!遅くなったら帰り道も危ないよ」
「いうまでもなく賛成。帰りはみんなで帰ればいいじゃない令ちゃん頭かたーい」
「由乃ちゃんの言うとおり息抜きは必要ね。賛成よ」
「私はどちらでも……」
「さ、賛成!」
「賛成です」

「じゃ、決定ー」
令だけがこいつ絶対何か企んでるという顔で嬉々とする由乃を見ていた。


――校舎を一通りまわって一番上の階の三年生の教室。ここが第一チェックポイントね。後ろの黒板に小さく自分のイニシャルを書いて目印にしましょう。渡り廊下を進んで体育館。ここも屋内倉庫の前にある黒板にイニシャル。最後はプール、更衣室前の黒板にイニシャル書いたらここに戻ってきましょう。全部まわって15分くらいじゃない?10分おきに各組が出発ってことにしましょうか。あ、そうそうウチのプールって、30年くらい前に一人死者出してるらしいよ……。心臓発作だって。

最後のセリフに一瞬由乃以外の皆が凍った。

「じゃ、順番はクジどおり紅薔薇ペア、白薔薇ペア、黄薔薇ペアってことで」


いってらっしゃいという声に送られて祥子と祐巳はビスケット扉を出た。

曇り空の今日はいつもより多少早い時間に闇が訪れようとしていた。
西のほうを見ればまだうっすらと明るいものの、土を踏む二人の足下に伸びる影は周囲に今にも溶け込もうとしている。
ざっ、ざっ、と土を踏む音が妙に大きく響いた。
「祐巳」
「なんですか、お姉さま」
「突然だけど、祐巳はその……怪談を信じるほうかしら」
「うーん……信じるっていうか……怖い話は、やっぱり怖いです」
「そう……」
いまいち返答になっていないズレた祐巳の言葉を頭の中で咀嚼しながら祥子は歩みを進めた。
「……」

(……ここは祐巳を私がしっかり守って、頼りになるところを見せてあげないと)
咀嚼しすぎて祥子の脳内に出た解答も少しズレていた。

二人で明かりと人気の消えた暗い校舎に入る。
心なしかひんやりとしているような気がした。
しかし夏の気配を残したじっとりとした湿気は健在で、薄紫色の空気とともに背筋にまとわりついてくる。

「祐巳」
「はい」
「わ、私は怪談なんて、信じなくってよ……。私についていらっしゃいっ」
「はいっ!」
さっき話してから時間が経ちすぎていたせいで祐巳は祥子が何を言っているのか一瞬わからなかったけれど、とりあえず返事だけは威勢良くしておいた。

祐巳の返事に一瞬気分を良くした祥子だったが、校舎内の暗闇に足を踏み出すと一気に気分が萎えた。
(異様だわ……)
普段の騒がしさとは別の顔を見せる校舎に、胸の中に形のない不安と怖れの入り混じった黒い靄のようなものが取り付いてくる。しかしそれを無視して虚勢を張り、ずんずんと勢い良く三年生の教室へと歩いていく。

祐巳に気付かれないように歩きながらゆっくりと深呼吸をして落ち着こうとする。だがなかなかうまくいかずにひゅるひゅると声が漏れてしまいそうになってしまう。

(落ち着くのよ祥子……)
自分が怖がっていてはいけない。祐巳にしっかりとしたところを見せなければ——。
さっき薔薇の館で二人一組という単語を聞いたとき、怖がった祐巳が自分を頼りにするところを思い浮かべていた祥子にとって、自らが恐怖心に圧迫されてしまっては本末転倒であった。

しかし感じてしまうのだ。何もないはずの暗い視界の隅に何かがあるような違和感を。
怖くない怖くない怖くない。何度自分に言い聞かせても得体の知れない予感は拭えなかった。
怖くない怖くない怖く――。

バタン!

突然どこかで鉄扉が閉まるような音が聞こえた。
びくりと肩を震わせて祥子の歩みが大股を開いたまま固まり、祐巳が勢いあまってその背にぶつかる。

「ゆ、祐巳」
「は、はい……」
「今の音は何かしら……?」
「さ、さあ……残ってた先生がどこかの扉を閉めた、とか……?」
「そ、そうよね。宿直の先生ならまだいらっしゃっても不思議ではないわね」

ふう、と一息をついてあたりを見回す。
遠くにおぼろげに非常口の緑の掲示が見えるだけで周囲は暗い。
窓の外に目をやると昼間とは違って木の葉の影が意志をもっているかのように静かに揺れている。校舎の外にある街灯の光はちらちらと木陰から頼りなく漏れているだけだった。
視線を動かすのが怖い。隅にあるかもしれない何かが目に映ってしまうような気がして仕方ない。脇にある消火器の赤色までが悪意を持っているかのように妖しい輝きを放ち、脳裏に影を残す。

「お姉さま?」
「……い、行きましょうか」
しかしそれでも歩みを進めないわけにも情けないところを見せるわけにもいかなかった。なるべくなるべく目を細めて進行方向以外は見ないようにする。

通り過ぎる教室達はまるで山間の空洞のように沈黙を放ちなりを潜めている。
その空洞のなかから沈黙に混じってどうにもならない違和感が胸に流れ込んでくる。普段の明るい、人に溢れた教室のイメージとのギャップのせいだろうか……。閉じられたカーテンが揺れているような錯覚や、誰もしらない誰かがいるような雰囲気を常に横から感じてしまっていた。
かといってその反対側にある窓が写している木々の葉やガラス面に反射した廊下の風景もやっぱり不気味で、祥子はわき目もふらず、ただ祐巳がついてくる足音だけを確認しながら進むしかなかった。

「お、お姉さま、待ってくださいっ」
「何かしら、祐巳」
答えながらも祥子はやはりずんずんと進んでいくだけだ。

「お姉さま、止まってこちらを向いてくださいっ」
「ど、どうして?」
祐巳の常ならぬ発言に色んな意味でうろたえ、祥子はとりあえず歩みだけは止めた。

「だ、だって、その、お姉さまのお顔が見れないと不安で……」
「そ、そうね。私も祐巳の顔が見れないと不安だわ」
そう言いながらも、一度歩みを止めて周囲を埋める闇が視界で主張し始めると祥子は全く動くことができなかった。なんとか首を動かして祐巳のほうを見てあげたいけれど、ざわざわとした予感が肌を刺して力を入れることができない。

「お、お姉さまぁ」
後ろから祐巳の頼りない声が聞こえてくる。
「ほ、ほら、あの、のっぺらぼうって、あるじゃないですか。親しい人だと思って顔を見てみると、顔がなかった、っていう……あっと思って逃げたら、出会う人みんなに顔がない、っていう……」
「なんか私、それ思い出しちゃって、だから、その、お姉さまがこっちを向いてくださらないと、不安で不安で……」
「…………」

(なんてことを思い出させるの祐巳……!)
祥子の心臓はのっぺらぼうという単語を聞いた瞬間からばくばくと波打ちはじめていた。そうだ、そんな話があった。そして自分は……校舎に入ってからというもの、一度も祐巳の顔を見ていないのではないか?あの下駄箱を通り過ぎたときから感じている空気の冷たさと粘性と拭いがたい違和感。あれを意識してから、一度も祐巳の顔を見ていないのではないか……?
もしかして私の後ろをついてきていたのは、校舎に入ったあの瞬間から祐巳ではなくて別の――

――いやいや、そんなわけがない。ちょっと神経質になりすぎているだけだ。
そんなわけないそんなわけないそんなわけない。
「だ、大丈夫よ、祐巳」

自分に言い聞かせるように言って、ゆっくり落ち着いて振り向く準備をする。
落ち着きなさい祥子。大丈夫よ。
後ろを向けば、いつも通りのあの愛らしいタヌキ顔があるだけだ。
常に笑みに細められているかわいい目と、高いとはいえないけれどぷっくりとした鼻と、柔らかそうな頬と唇があるだけだ。

振り向けばいつもの祐巳がいるだけ。
夜の学校だからってのっぺらぼうなんて、そんな。
顔がないなんて、そんな。あるわけない。
あるわけない。

よし。
「私はここよ、祐巳。のっぺらぼうなんかじゃないからよく見なさい」
精一杯のキザなセリフと共に、意を決して振り向く。

「おねえさまっ」
振り向きながら感じる祐巳の声。
多少うわずっているがいつも通りの声だ。
そして完全に振り向けば、そう、いつもどおりの祐巳の顔が――。

顔が――。

顔が――無かった。

「お姉さま」
顔の無い祐巳が、もう一度自分を呼ぶ。

夜のリリアン学園高等部棟を切り裂く悲鳴をこだまさせ、祥子は意識を失って床に倒れ伏した……。



「う、うわぁ……やりすぎちゃったかな……」
祐巳は顔から肌色の薄い膜のようなものをぺりぺりと剥がす。昨夜母親の美容パックを切り貼りして作ったものだ。

「蔦子さん、蔦子さん、居る?」



――2日前。
「「肝試し?」」
祐巳と由乃の声が重なる。
「そ、肝試し」
眼鏡の奥に彼女固有のどこか余裕のある笑みを浮かべて、蔦子は頷いた。
「何を考えていらっしゃるんですか」
3人の横に控えていた乃梨子が怪訝そうに問う。
正午直後の薔薇の館。出席しているのは、お姉さまより早めに準備をしにきた蕾三人と武嶋蔦子だけだった。

「何を、っていうか、いつも通りのことしか考えてないんだけど」
「……?というと?」
「私はできるだけたくさんのものをフィルムに収めたいの。その一貫と言えるかしらね。例えば乃梨子ちゃんや祐巳さんは、お姉さまが本気で驚いたり怖がったりしている表情を見たことがある?」
うーんと祐巳は考え込み、乃梨子も少し視線を泳がせて押し黙る。

「お姉さまが怖がってる表情かぁ……。なんか想像もできないなぁ」
「見てみたくない?」
「そ、そりゃ見てみたい気もするけど……でも、どうやって?」
「だから、そのための肝試し」
「あ、そっか」
「自らの思い人の今までに見たことのない表情を見ることができる……。興味がわいてこないかしら?」
「おおおお思い人だなんてそんなっ」
照れる祐巳になんだか困った母親のように苦笑いしながら、由乃は蔦子に向き直る。

「でも、私は令ちゃんなんか見慣れてるしなぁ」
「そんな由乃さんなら令さまが本気でびっくりしている瞬間の表情をうつした恥ずかしい写真も、乃梨子さんや祐巳さんと違う使い道があるのではないかしら?」
「違う使い道、ねえ……」
「なにせあれだけ苦労して校内ではイメージ作りをしているミスターリリアンの情けない表情よ?」
顎に手をあてて数瞬ふむと考えていた由乃だが、急にその猫のような目が輝きだす。

「なぁるほどなるほど。恥ずかしい写真。情けない写真。ミスターリリアン。うっふっふっふっふ……」
「うふふふふ」
蔦子と由乃は悪代官と商人のように訳知り顔で頷き合う。
「……由乃さん、蔦子さん、怖いよ」
「だまらっしゃい。よし蔦子さん。その話乗ったわ」
「さすが由乃さんは話がわかるわね。お二人さんはどうする?お姉さまのかつてない表情が見れるチャンスなのよ?」

「志摩子さんの……」
「そうそう、それに二人一組で行けば、乃梨子ちゃんなんて志摩子さんに頼りにされちゃうんじゃない?」
「そ、そうでしょうか」
「志摩子さん、怖くて目を涙で潤ませて乃梨子ちゃんを見上げちゃったりして……」
……一瞬乃梨子の目の奥がぎらりと光ったような気がした。
「その話、お受け致します」

「さあ祐巳さんどうする?」
「ううーーん……」
「煮え切らないわねえ。じゃあついでに今まで隠し撮りした祥子さまの写真のなかからできのいいものをあげるわ」
「え、ほ、ほんと!?」
「話に乗ってくれるならね。サービスサービス」
「の、乗ります!」

それから四人の話は多いに盛り上がった。
いつ実行するのか、どういう風に話をもっていくのか、誰が切り出すのか……。夜なのに撮影できるのか、蔦子はどこに隠れているのか……。
はたまたただ肝試しをするだけなら怖がってくれないんじゃないか、それなら自分達のほうからネタを仕込んで脅かしてみてはどうか……等々。
小一時間ほど額を付き合わせんばかりの勢いで討論し、おおまかなことが決まった。皆が皆、期待に胸を膨らませていただろうが、一番楽しみにしていたのは勿論写真部のエースだろう。

(あの祥子さまが驚愕に目を見開く表情!はたまたミスターリリアンが恐怖に顔を歪ませるところ!あのおっとりとした志摩子さんが必死に妹に抱きついたりしたら!?あぁー楽しみッ)


――。

「ねえ、今誰かの悲鳴しなかった?」
「気のせいじゃない?」
「由乃、絶対何か企んでるでしょ」
「やあねえ人聞きの悪い。あ、そろそろ10分たつよ。白薔薇さん達いってらっしゃーい」


……そういえば二人きりなのは久々かもしれない。もっとも、忙しかったのは8月後半だけだから二週間くらいなのだけれど。それでも乃梨子は心がはずむのを抑えられなかった。これでもし蔦子さんの言った通りのようなことになったら……。御仏と幽霊に感謝しよう。相容れないものだけど。

「志摩子さんは、幽霊とか信じる?」
「そうね……。あまり深く考えたことはないわ」
(そうか、志摩子さんにとっては考えるまでもないことなのかも。ちょっと当てが外れたかな……)
でも二人きりなんだしいいか、と乃梨子は素早く気持ちを切り替える。

「うーんそっか。まあ、幽霊云々は抜きにしても夜の学校ってなんだかわくわくするし。ゆっくりいこっか」
志摩子は微笑みながら頷いて、唐突に乃梨子の手をとった。
「ししまこさん?」
「嫌かしら……?」
「そんな!全然!いいよ!」
乃梨子が慌てて返すと、志摩子はキュッと手を握り返してくれた。

「さすがに雰囲気あるなぁ……」
校舎に入ると外では聞こえていた鈴虫の声が消え、静謐が満ちている。
「志摩子さん、私から離れないでねっ」
「ええ」

二人分の上履きが廊下をこする音だけがうっすらと鳴っている。
ただひたすらの静謐と闇が支配する視界は、今は学校に自分達以外誰もいないんだという意識を一段飛び越えて、異界にさ迷いこんでしまってこの世界全体に誰もいないような錯覚すらをももたらす。
(でもまあ志摩子さんと一緒ならそれも悪くないかな、なんて)
そう考えた直後に何考えてんだ私と自戒した乃梨子はなんとなく後ろめたくなって隣にいる人を盗み見た。

——闇のなかでも美しかった。
ほとんど真っ暗ななかでも燐光を放っているかのような白い肌。
半袖の制服からすらりと伸びた細い腕。
独特の軌跡でふわふわと舞う柔らかそうな髪。
なんとなく見ていられなくなって落とした視線の先には縊れたウエスト。
思わずほうと溜息をついた。

悩ましい溜息をついた乃梨子を見て、どうしたのという風にこちらを向いて視線を投げかけてくる志摩子。その仕草に照れや高揚があいまって、乃梨子は意味もなく繋いだ手をキュッと握り締めた。志摩子はまだよくわからないというように乃梨子を多少覗き込むように見つめてくる。その邪気のない顔に乃梨子の胸はさらに高鳴って、無意識のうちに意味もなくまた手をキュッ、キュッと握り締めていた。
そんな乃梨子の態度から何を感じたのか。志摩子も同じようにキュッ、キュッと握り返す。いつしか二人はリズムをつけるようにお互いの手を握り合っていた。

「な、なんか小さい子供みたいだね」
「うふふ。でも、なんとなく楽しいわ」
「そ、そう?」
「ええ」
「そそれなら嬉しいなっ」

胸のなかでも快哉を叫びながらガッツポーズをした乃梨子だったが、ふいに手をつかんでいた力が緩められて戸惑う。どうしたのと問うかどうか迷ったところに、戸惑いに弛緩した指に指が絡められる。

「……!」
おどろいて志摩子を見ると、稚気のある楽しげな瞳が見返してきた。口許には極上の笑みを浮かべながら。

「えへ、えへふは」
「うふふ」
幸福感と照れで思わず変な笑い声が漏れる。

「で、でも志摩子さん意外だねっ!」
もう恥ずかしさと嬉しさで頭の中がわけがわからなくなっている乃梨子は手をぶんぶんと振りながらやたら大声で話し掛けた。
「何がかしら?」
「いや、ほら、志摩子さんすっごい落ち着いてるし。むしろ楽しそう。もうちょっと怖がってくれても良いのになぁ、なんて」
「あら、それは私だって思ってるわ。乃梨子ったら、ほんとにいつも通りなんですもの。こんなときくらい頼ってもらえるかなとも思ったのに」

(い、いつも通りじゃないと思いマス……)
今更ながらに繋がっている左手を意識して乃梨子はますます赤面した。

「でも、本当に。……乃梨子が、……乃梨子がもっと私を頼りにしてくれたらいいのに」
「え?」
伏せられた長い睫毛でその表情は見えなかった。
しかし声色が急にか細くなったのは確かだ。まるで呟くように独り言のように過ぎ去っていった言葉達。

「志摩子さん……?」
さっきまでとは違ったニュアンスのお姉さまの発言に戸惑った乃梨子は改めてその瞳の色を探ろうとする。
けれど、闇に隠れてよく見えなかった。

「乃梨子」
「うん……?」
「さっき、乃梨子はもうちょっと私が怖がってくれたらいいのに、って言ったわよね」
「う、うん」
「私、本当は怖いの」
「へ?」

それってどういう……?と乃梨子が聞き返す間もなく、志摩子は乃梨子に自身の体を預けていた。
「!?」
わけもわからず乃梨子はとりあえず細い腰と薄い背中を抱きとめて……そして何かを思い出したように両腕を背で交差させるほどギュッと志摩子の身体を抱き締め直して——

——肝試しとか蔦子さんとかはすっかり頭の中からすっ飛ばしていた。



——。
「そろそろ私達も行きますか」
「そうだね……。それにしても祥子達遅いなぁ。もう帰ってきてもいい頃なのに」
「まあまあ。ゆーっくり二人で歩いてるんじゃない?」
「うーん。祥子は怖がりだからなぁ。でも祐巳ちゃんがついてるなら大丈夫かな……。まあ途中で気絶でもしてたら拾えばいっか」
「……何気に酷いわね令ちゃん」


夜の学校を歩いたって今更大した感慨はない二人。小さい頃から似たようなことは繰り返してきた。
「ねー令ちゃん思い出すねー」
「何を?」
「小学生くらいのとき、二人で夜の学校に忍び込んだじゃない」
「ああ……。あれは由乃が忘れ物したからでしょ」
「そうだっけ?」
「そうだよ……。それにしてもまったく、いきなり肝試しだなんていったい何を企んでるのやら」
「何も企んでませんよー。姉妹の絆を深めるいい機会じゃない。そうまるで吊り橋の上で出会った異性に一目ぼれするような」
「ダメじゃない、それ……」

呆れたように溜息をつく令を由乃はニヤニヤと眺めた。
由乃には令をびっくりさせる秘策がある……というほどではないけれど、それなりの準備はしている。
余裕ぶっこいてられるのも今のうちよとその背中に密かに啖呵をきった。
「令ちゃん、あのプールの話は本当なんだよ?」
「うーん私も確かに聞いたことはあるけど……」
「楽しみだねー」
「……そんな罰当たりなこといってると祟られちゃうよ」
(蔦子さん、頼んだよ)

特に何事もなく第一チェックポイントと第二チェックポイントを通過する。
途中守衛さんに見つけられそうになったのがトラブルらしいトラブルだろうか。
黒板には先にいった紅・白のペアのイニシャルも書いてあったし、きっとみんなうまくいっているのだろう。
そして第三チェックポイント。面白いのはここからだと由乃は含み笑いをした。

体育館の脇から伸びている石畳を進んでいく。
プールの周囲には覗きを防止するためでもあるのだろう、ブロック塀と林立する高い木がある。
石畳の先のちょっとした階段をのぼるとプールだ。

「うーんいかにも出そうな感じ」
「ほんとに罰当たりなんだから……」
階段を登って並んでプールサイドに立つとひんやりとした風が足首を撫でた。やはり水場が近いと温度は低いのかなと由乃は思った。
「ちょっと冷えてきたかな……風邪ひかないようにね」
同じことを考えたのか、令も釘をさす。
「大丈夫大丈夫」

由乃はとたた、と少し駆けてプールの縁に立つ。
「ほら、令ちゃんもこっちおいでよ」
「あ、危ないよ由乃」
「大丈夫大丈夫。幽霊何するものぞ」
わはは、と何故か勝ち誇った笑いをして由乃は胸を張った。隣に並んだ令は今日何度目かになる溜息。

また冷たい風がふいて、プールの水面をゆらゆらとさざめかせる。
(水面?)

由乃ははたと気付いた。前日の打ち合わせでは、プールの水は9月以降は使われないから抜いてあるはずで、そのプールの中から蔦子さんが仕掛けをするという手筈だったはずだ。
(なんで水があるの……?)
唐突に言い様のないちりちりとした感覚が背筋を登って、由乃は思わず周りを見回した。白板。大型のストップウォッチ。段になっているプールサイドとトタン屋根の見学所。その脇にあるトイレ。倉庫とその前に積んであるコースロープ。暗闇である以外は体育の授業で見慣れた風景のはずだ。
でも、何かが違うような気がしてくる。
なんだろう。疑問に思いながら再度見回してみても、目に見える異常はない。でも喉元をしめつけるような不安は消えなかった。何かおかしい。

「ね、ねえ令ちゃん」
「なに?」
「なんかおかしくない……?」
「またまた。そんな怖がらせようったってむだ……」

令の返事を待たずに、突風が吹いた。
ここに入ったときからずっと感じていたあの冷たい空気が塊になって強く吹き付けてくる。
思わず目をしかめてスカートを抑えながらあさっての方向を向いたが、そのときに気付いた。

強い風に水面はゆらゆらと意志を持っているかのように蠢いているのに。
塀の向こうにある木々の葉は……全く揺れていない。

「……!!れ、令ちゃん!」
「ど、どうしたの由乃」
「バカッ!鈍感!外にある木!こんなに風ふいてるのに葉っぱ全然揺れてない!」
「え?え?あ……!」
「な、なんかこれヤバくない?」
「う、うん」

由乃が令の腕にすがるように抱きついたときだった。
風が急に止んだかと思うとごぼりと音がして水面が膨れあがり、プールサイドにみるみる水が溢れてくる。
「キャアアアアア!」
「ふぅわああ!」

びちゃびちゃと水を散らしながら出口に向かって一目散に走る。
その間にも水はどんどん溢れてくる。しかもその水はなぜか埋まった靴のつま先が見えなくなるような、絡みつくような、黒さと弾力のある重い水だった。

「何これっ、何これえええ!」
出入り口の階段が果てしなく遠く感じられる。
そしてそこにある鉄扉は二人の行く手を遮るように閉まろうとしている。

「令ちゃん、令ちゃんっ、扉ッ」
「わ、わかってる」

しまりかけていた扉は令が体当たりするとわずかに開いた。
もう一度体当たりすると、なんとか二人が通れるくらいの隙間があく。
「由乃、はやくっ!」

叫びながら振り返った令の視界の端に。
プールの上を何かを探すように動き回る無数の白い腕が見えた。
「……!!」
声にならない叫び声をあげて令は由乃の手をおもいきり引きながら必死に出口をくぐった。
その直後、鉄扉が大きな音をたてて閉まり、がちゃんと名残惜しそうな音をたてながら閂がかけられる。
悪意そのもののような鉄扉に身の毛のよだつような思いだった。


「ハッ、ハッ、ハアッ、ハァ・……」
全速力で走ってやっと薔薇の館が見える辺りまで来て息をつく。
膝に手をおいて呼吸を整える二人。

「ハッ、ア、ハァ、ハァ……」
「よ、しの、だい、じょうぶ……?」

「ハァ、ハァ、ハァ……だ、だいじょ……ひっ!?キャッ、いやあああああ!」
急に由乃が叫び声をあげる。
「ど、どうしたの?!」
「足!足!靴!」
「え……」

見ると、二人の革靴には無数の黒い髪の毛が纏わりつくように付着していた。


——。
「で、二人して裸足で戻ってきたわけ?」
呆れ顔の祥子と心配そうな祐巳、志摩子。そしてなんだかそわそわしている乃梨子が二人を出迎えた。
「全く情けないわね……」
余裕ぶっていう祥子だったが、その声にはどこかホッとしたような響きが混じっていた。
「だって、本当に出たんですよっ!ああもう思い出しただけでも……」
「と、とりあえず今日はもう帰りましょう……」
「私プールの授業は金輪際嫌……。ていうか登校拒否したい」
「情けないわねえ」
「そういう祥子さまもなぜ上履きのままなのですか」
「…………」


後日。
祐巳には驚愕に白目を剥いた祥子の写真(となぜかその横で添い寝をしている祐巳の写真)が手渡され、乃梨子にはとても口では言えないような写真屋さんでは絶対現像してもらえなさそうな写真が手渡され、由乃には必死の形相で走る自分と令の写真が手渡された。
蔦子の話によると、プールの中で待っていたのに由乃と令は現れなかったという。諦めて帰ろうとしたところで偶然走ってくる二人を撮影することができたそうだ。
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