Ci-en

 

booth

或る朝の風景

——。
最初は罠で次からは沼だった。
最初は嵌められた。でも次からは自分で嵌っていった。
捕えられて息苦しくて、でもそれが甘美であることを私は身をもって知って囚われていった。

「こっちへいらっしゃい」
そう言われると何も言えなくなってしまうのだ。
伸びる手。撫でられる神経。感触の焼け付き。纏わりつく温さ。

黒いタールが太い筋で床に流されたときのように張力の大きいそれは徐々に覆っていくのだった。
異様になめらかに波打ちながら、確実に。
ときどき固まりがごぼりと降ろされて、泡と共に一瞬の一層の勢いを付け加える。
それが唯一の緩急だろうか。
身を覆う粘性の高い液体に、私は身震いする。しかし重い液体はそんな小さな振動を伝えることは全くなかった。何物にも動じることなくただ体積だけを増していった。

距離がおかしい。
向こうの手は届くのにこちらの手は虚しく空を切る。
触れられないところの霜焼けのような無感覚と触れられたところの幾つもの礫があたるようなひりつく痛さ。
足場のない足は踏み出すこともできない。

遠いのか近いのかもわからなかった。
体温と混ざっていく身を包むタールの境界。ブラックアウトした視界には白い輪郭だけがちらちらと歪む。
笑顔。白い線で書かれた黒い笑顔。

「こっちへいらっしゃい」

——。

目が覚めると呆気ないほどに爽やかな朝だった。
少し開いたカーテンからは陽気が差し込んでいる。
痛む頭に顔をしかめながら窓とカーテンを開ける。

冗談みたいに高い空。


「おはよ……」
「令ちゃん、おそーい!」
寝ぼけ眼で入った台所には、見慣れた従妹の顔。
「あれ? 由乃、今日ははやいね……」
「はやいねじゃないでしょ!朝練遅れるじゃない!」
悪夢の直後の痛む頭にガンガンと声が響く。
「うー……。ああもうこんな時間かぁ……」
時計を見るといつも出る時間のたった15分前だった。

「もう! なんでそんなにノンビリしてられるの?こんな時間かぁじゃないでしょっ。遅れたらどうするの!」
「そうだねえ」
確かに朝練はあるけど、学期始めの今は大会を控えているわけでもなく、他の部員も顧問ものんびりした自主練習くらいにしか考えていないだろう。だから特にキッチリと時間通りに行く必要もないのだけど……。
由乃はまだ夏休みの大会中の気分が抜けていないのかもしれない。
単に性格もあるだろうけど。
でもあんまりうるさいので、手早く用意して今朝はバス停まで自転車で行くことにした。

「バスが来る時間まであと10分もないよ!急いで急いで」
「はいはい」
キコキコとペダルを鳴らしながらゆっくりと二人分の重さを漕ぎ出す。
半袖では朝の空気はもう少し冷たくなっていた。
見上げると、起き抜けに見たとおりの冗談みたいに高い空。

「あ、令ちゃん、後ろ髪に寝癖ついてる」
「え、本当?」
「うん。面つけてたら直りそうだけどね」
左腕だけでハンドルをささえながら、右手で後頭部をさぐってみると、なるほど髪が逆立っている感触。

「ね?」
「うん。恥ずかしいなぁ……」
「バスの中でなおしてあげよっか?」
「それも恥ずかしいけど……でも、お願い」

しばらく無言で足を動かしていると、まだ頭を覆っていた気だるい重みが徐々に引いていった。
(やっぱり、体動かすのって大事だな……)
思い立って、気まぐれに立ちこぎでスピードをあげる。

「あはは、きもちいいー」
後ろに座っている由乃が歓声をあげた。なんとなく嬉しくなってさらにスピードをあげる。

「ねえ、令ちゃん」
「うん?」
「今度パーマでもかけてみたら?なんか寝癖みてると似合うかもって思っちゃった」
「パーマ? 私には似合わないよ」
「そんなことないと思う」
「由乃こそかけてみたらいいじゃない。きっとすごく可愛いよ」
「わ、私はいいの!」
「どうして?」
「どうしてもこうしても!ていうかだいたい校則違反じゃない」
「あ、そうか」
「だから、卒業したらね」
「うん……。卒業したら、か」

バス停の近くの本屋の横の、ちょっとした空き地に自転車を置く。
「間に合ったね」
ちょうど近づいてくるバス。まだまだ時間が早いために乗客の姿はまばらだ。

「ねえ、一番後ろに座ろう?そこなら髪いじりやすいし」
「うん」

私は頷きながらバスのタラップを登る。
ふと二段目で振り返って、演劇のように大仰に手を差しのべ、「こちらへいらしてください」と言ってみた。
由乃はあきれながら「結構です」といって、私の手をぱしりと払った。

「全く、朝っぱらから公共の場で何してるのよ」
「あはは、ごめんごめん」

最後尾の長椅子に座って、後ろの窓から覗いた空もやっぱり冗談みたいに高かった。
雲は少ししかない。
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