Ci-en

 

booth

嘘しか言えない

リリアン・花寺ともに時をほぼ同じくして始まる期末試験。
深夜になっても未だ煌々と灯りのついた自室で俺はその対策のためにノートと睨めっこしていた。
生徒会長としての面目を保つのもなかなか大変なのだ。

しかし必死に努力をしてもかろうじて面目を保てる程度の成績しかとれない自分に少し苛立ちを感じる。前生徒会長はきっとこんな苦労はしていなかっただろう。
あの流し目とからかうような笑顔と無駄に爽やかに光る白い歯。
……その柏木さんイメージは俺の頭のなかで勝手に成長してユキチと呼びながらこっちに迫ってきた。
あわててぶんぶんと頭を振ってイメージを消す。嫌な汗が……。

——気分転換にコーヒーでもいれよう。
俺は両親と祐巳を起こさないように気をつけながら静かに自室を出た。冬休み間近の深夜、しんと冷えた廊下にわずかに響く床が軋む音。小さい頃姉と一緒に夜更かししてこうして一緒に階段をこっそり降りたことを唐突に思い出す。
何を気にすることなく手を繋いでいられたあの頃。祐巳の手はあの頃と同じように小さくて柔らかいままなのだろうか。骨張って多少太くなった自分の手をじっと見る。

そんな風に足元を見ずにぼうっとしていたら危うく階段から足を踏み外しそうになった。全く。シリアスになろうとしても受け継がれたタヌキの遺伝子が邪魔をするらしい。軽く自嘲の溜息をついてリビングのほうを見ると、灯りがついているのが見えた。誰かいるのかな。消し忘れかもしれないけど。

そっとドアをあけて中をうかがうとソファに横になって居眠りしている祐巳がいた。ソファの前に置いてある背の低い机には、参考書やシャーペンが乱雑に散らばっている。勉強途中に前後不覚に陥ってしまったようだ。ノートの上のミミズがのたくったような文字が祐巳の奮闘ぶりを表している気がした。山百合会の幹部としての面目を保つのもなかなか大変らしい。

「祐巳、こんなところで寝てたら風邪ひくぞ」
「……」
呼んでも安らかな寝息をたてているだけで反応がない。
「祐巳、祐巳ってば」
多少声のボリュームをあげてみるが、よっぽど疲れているのかやはり反応はなかった。

「ったく……」
しょうがないので屈んでゆすり起こそうとして小さく丸い肩に触れると、柔らかく、しかし華奢な感触が手に伝わった。

「…………」
なぜかその姿勢のまま俺は固まってしまう。
いま手のなかにある暖かさと柔らかさと細さ。それは血の繋がった姉のものなのに、いつも側で見てきた姉のものなのに、まるで全く別人の女の子のもののような気がしたからだ。

……どうかしてるんじゃないか、俺。
妙に高鳴る胸に耐え切れずに何もできないまま手を離し、「ゆ」の形のまま固まってしまった口から深いが不安定な息を吐いた。二、三度深呼吸して息を整えて改めて考え直す。
とりあえず今祐巳の体に触れて起こそうとするのはなんだか危険な気がする。

俺は一度部屋に戻って毛布をとってきて祐巳にかけてあげることにした。

……床の軋む音がまた廊下に響く。
いったい俺は何をしてるんだろう。肩に軽く手をかけて、少し揺すればそれで済むだろうことなのに。こんな風にわざわざ毛布をとりにいって。意識しすぎだ。
落ち着け、落ち着け、あれは自分と同じ顔をした姉だと滑稽な心中独白を繰り返しながら毛布を持って階段を降りる。自分に言い聞かせるのに夢中になってまた足を踏み外しそうになった。
……本当に滑稽だ。

リビングに戻ると同じ姿勢のまま祐巳は眠っていた。
そっと毛布をかけてあげると、軽く身じろぎしたが結局目を覚ますことはなかった。寝顔をもう少し見ていられると喜ぶ自分が少し嫌になる。

コーヒーを淹れよう。落ち着こう。こんな調子じゃダメだ。本当に気分転換しないと……。
やかんに水を入れて火にかけフィルターや豆をセットする。こうしてごそごそしていても祐巳が目を覚ます気配はない。

ガスが燃える音とエアコンの音が響く。
呼吸にあわせて静かに動くパジャマ越しの胸のふくらみ捉えてしまっている自分の視線にどうしようもない罪悪感を感じながら遠目に姉を眺める。敢えて眺め続ける。大丈夫、アレは姉だ。俺は変態じゃないからドキドキしたりしない。落ち着け、落ち着け……。
二人の間の物理的な距離は保ったまま冷静に見る。今度は眺めるだけじゃなくてちゃんと見る。
高鳴ろうとする胸を必死に抑えつけて、どんどん自分を覚ましていく。冷ましていく。醒ましていく。

だいぶ落ち着いてきたところで湯が沸いた。
カップを暖めてからフィルターの中心に向かって少しずつお湯を注いでいく。無機質な水音とコーヒーの香りと単純だが丁寧さを要求される作業が俺の理性をさらに確固たるものにしてくれる気がした。

砂糖やミルクは入れずにわざと濃く淹れた真っ黒い液体を少しずつ飲み干す。とても苦い。でもその苦さが今は心地よくて、味覚にしっかりしみこませて頭のもやを取り払う。

飲み終わって一つ大きく深呼吸して、祐巳の頭の傍らに腰掛けた。
見下ろすと安らかな寝顔。意外に長い睫毛。
俺は小さい頃からこの長い睫毛を知っているけど、両親以外にこのことを知っている人はいるのだろうか?つまらない疑問だけれど。
祐巳の顔を間近で見つめたことがある人間だけが知りえる事実。
できれば俺以外の人には知ってほしくない事実……。

いつもと違って降ろしているくせっ毛が頬にかかっている。前髪をかきあげるようにして額と頭を何度か撫でた後、頬の毛を耳にかけてやる。淡く色づく柔らかそうな頬が露出した。すぐそばにある同じく淡い色の小さな唇と相まって、とても魅力的に見える。
俺はまた自身が惑わされてしまう前にその頬をぺちぺちと叩いた。コミカルに、しかし殊更無感動を装って柔らかい肌に触れる興奮を隠しながら。

「んう……」
ぺちぺちぺち。
「……いたいよぉ……」

祐巳はぼんやりと目を開ける。
「祐巳、こんなところで寝てたら風邪ひくぞ」
あらかじめ用意しておいたセリフをなぞる。
「あれ……祐麒?」
ごしごしと猫のように目をこすりながら祐巳はゆっくりと体を起こした。

「あー……寝ちゃってた……。今何時?」
「もう3時になるよ」
「え、そんなに?あああぁー……。仕方ない、今日は寝ようかな……」

祐巳は大きくため息をついて勉強道具を片付けるためにソファから体を乗り出した。かかっていた毛布がぽふっと床に落ちる。
「ん?あれ、これ祐麒の毛布じゃない?」
「そーだよ。あんまり気持ちよさそうに眠ってたからしばらく放っておいたんだよ」
「あ、そうなんだ。ごめんねー。祐麒は優しいね」
熟睡していたのが恥ずかしくなったのか、えへへと照れ笑い。でも、天然のカウンターというかなんというか。謝辞のあとに付け足された言葉に今度は俺が照れてしまう。

「なんかいい香りがするね。コーヒーでも飲んだの?」
「うん」
キッチンのほうに置いたままになっているカップややかんを示しながら頷く。
「私もなんか飲みたいなぁ……」
「ミルク温めて砂糖入れる?」
「あ、うん、それがいい。あれ好きなんだよねー。飲むとよく眠れるし」

うん、知ってる。昔からよく飲んでたね。
その言葉を飲み込んでレンジに牛乳を注いだカップを入れる。
「ねー祐麒。テスト勉強どう?」
「どうって……。まあそこそこ」
「そっかぁ。お互い大変だね」

祐巳はソファの上で毛布を抱きしめるように体に巻いて体育座りをして、自分の足の指を見つめている。その姿はいつもより妙に小さく見えた。
「祐麒、怒ってる?」
少し顔をあげて、祐巳はこちらを上目遣いに伺ってくる。
「え、なんで?」
「うーん、いや、なんだかさっきからずっと難しい顔してるから……」
……俺も祐巳と一緒で顔に出やすいのを忘れてた。いや、顔に出ていなくても祐巳ならそういうものをなんとなく感じ取ってしまうのかもしれないけれど。

「気のせいだよ」
「そっか。それならいいんだけど」

ピーッとあたためが終了したレンジの電子音が鳴る。
「ほら、できたよ」
「うん……あったかいね」
祐巳は微笑んでカップを受け取り、両手でそれを抱えながら飲む。幼い仕草だ。祐巳はふとした自分の仕草が、誰かにとって途方もなく蟲惑的に見えることに気付いているだろうか?

なんとなくじっと見つめていると気付いた祐巳がこっちに「ん?」というような視線を向ける。
「どうかした?」
「いや、なんでも」

そんな俺の不自然な態度に少し考えるようにしていた祐巳だが、あっと思いついたように口を開いた。
「祐麒も欲しいの?ちょっとならあげるよ」
カップを差し出してくるが、見当違いにも程がある。
「……いらないよ」
そう?と少ししょんぼりする祐巳を見るのが気まずくて俺は視線を逸らした。
あんな甘いミルクいらないし……間接キスじゃないか。小学生じみた発想なうえに祐巳はそんなこと意識してないんだろうけど。

「ごちそうさま」
「おそまつさま」
祐巳のカップを自分がさっきつかったものと一緒に流しに置いておく。

「じゃあ、部屋もどろうか」
まだソファで体育座りしている祐巳を即したが。
「……」
何故か反応がない。

「祐巳?」
「……の…おい」
「え?」
毛布に顔を埋めている祐巳の発言は酷く聞き取りづらかった。
「祐巳?何か言った?」

「……祐麒のにおい。この毛布」
「……な、なにいってんだよ」
「懐かしいなぁ……。小さい頃はよくしたよね、お互いの部屋でプチお泊り会みたいなの。そのときの祐麒の布団のにおいがこの毛布からもするよ」
いったいどういうつもりで言ってるんだろう。まあ祐巳のことだからたいした意味なんてないんだろうし、女の子にありがちな急にロマンチックになる病気みたいなものだろうと思うけど。

「そんな、他人のにおいなんて嫌じゃないのか?」
「そりゃ赤の他人は嫌かもしれないけど。祐麒のが嫌なわけないじゃない」
「……ッ」

たとえ家族間の当たり前の情だとかほんの何の気もない一言だとかにしても。
自分を無条件に肯定してくれる言葉をそんなに優しく微笑みながら言われるとすごく困るのだ。
あんまり胸の奥を刺激するようなことを言わないで欲しい。
あんまり頭の芯を揺さぶるような仕草をしないで欲しい。

「……バカなこといってないで、さっさと部屋もどらないと風邪ひくぞ」
動揺ゆえについつい出てしまうぶっきらぼうな言葉。本当に小学生みたいだ、俺。
でもある種の殺し文句をさらっと受け流せるほど大人でもないし、割り切ってしまうこともまだできない。祐巳には悪いと思うけれど。
「バカとは何よー。せっかく人が昔を思い出して浸ってるのに。あーあの頃の祐麒はかわいかったなぁ」
祐巳は勘がいいところもあるけれどこの種の感情に対しては疎い。それが今は幸いだった。

「まあバカは風邪ひかないっていうし朝までそこで浸ってれば」
「ひっどーい!じゃあこの毛布は貰っちゃうからね!」
「…………」
なんだか頭が痛くなってきた。
寝てるときも起きているときも、さまざまに祐巳は俺を惑わせる。これはなんだかバカバカしい例だけど。

俺はやれやれというジェスチャーと溜息を残して自室に戻った。
目の前から祐巳が消えると頭がみるみる冷静になって醒めてくる。
何が悲しくてさっきまで数十分間あんなに悩んでいたんだ……。

そして何が悲しくて毛布抜きで寝なくちゃならないんだ。一枚だけの薄めのかけ布団のなかで俺は溜息を積み上げて、寒さにふるえながら丸くなって寝入った。




翌朝。
短い睡眠時間のわりに気持ちよく自室で目を覚ました俺に、祐巳の毛布がかけられていた。
リビングで問い詰めてみると、昨日はごめんねありがとうところでしばらく毛布交換しない私しばらく祐麒の毛布使いたいんだと笑顔で言ってきた。天然なのか何なのか。俺は呆れ果てて返事をするかわりに祐巳の部屋から自分の毛布を強奪したのであった……。

「呆れ果てた」なかには一瞬でもその申し出を魅力的に思ってしまった自分の思考も含まれている。
目覚めたときに鼻腔をくすぐったとても心地よい甘さを俺は忘れることができるだろうか。
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