リハーサル
「祥子、もうすぐ予鈴鳴るよ。行こう」
「え?行くって……?」
「次は化学の実験でしょ?」
「ああ……そうね。そうだったわね」
どうも朝から祥子の様子がおかしいというか、なんというか。心ここにあらずといった感じでぼんやりとしている。そのうち治るだろうと思って静観していたが、昼休みが終わろうという今になってもそのままだ。またこのお嬢様は何を思い悩んでいるのだろうと心中で苦笑しながら急かす。
「ほら、教室の鍵閉まっちゃうよ」
予鈴間近であわててトイレに駆け込む生徒や教室移動する生徒でざわめく廊下。こうして祥子と友達としてこういう雰囲気の廊下を歩いたり、無駄話をしたりすることはけっこう好きなのだけれど。
……どうしたものか。こうもぼんやりされるとなんと声をかけていいものやらわからない。
「……今週の日曜日」
「え?」
考えあぐねていると、祥子のほうから声をかけてきた。
「あなたは田沼ちさとさんとだったかしら」
「そうだけど」
「由乃ちゃんとでなくて残念?」
「そりゃぁ……まぁ……」
由乃の不機嫌な顔を思い出した。日曜日の夜……何言われるかわかったもんじゃないな。
「ああ、ごめんなさい。そんなつもりで言ったんじゃないの」
よほど苦い表情をしてしまっていたのか、珍しく祥子のほうからフォローが入った。
「別にいいよ。それより……」
朝からの沈んだ様子が気にかかった。
「どうかしたの?悩み事?」
言うと同時に、並んで歩いていた祥子の姿が急に視界から消えた。
振り返ると思いつめたように教科書やノートをかき抱いて立ち止まり、廊下に視線を落としている。
「……実はあなたに相談したいことがあって」
やっぱり。
「相談は全然かまわないけど、もうすぐ授業が——」
キーンコーンカーンコーン……
喋ろうとした内容に示し合わせたように予鈴が鳴った。
「ほら、取りあえず実験室行かないと……」
未だ立ち止まったままの祥子の手をとって歩き出そうとすると、思わぬほど強い力で引き戻された。
「祥子?」
「令、次の時間を私にくれないかしら」
「それっていったい——」
「来て」
祥子は私の手をとって走り出した。
どういう展開なんだろう、これは。
すれ違う同学年の生徒が奇異の目を向け、下級生が黄色い声をあげている。
そんなことは祥子の眼や耳に入っていないようで、思いつめた表情でどんどん進んで行く。目的地は恐らく薔薇の館だろう。
石畳の道を二人で駆ける。
あの真面目で硬い祥子と二人で授業をさぼろうとしている——。このシチュエーションに少し心が浮き立つのを感じるのは不謹慎だろうか。
付き合わせて悪いわねと切り出した祥子に、まあとにかく座ろうよと椅子を引いてやる。
「多分大丈夫だよ。あの先生いっつも出欠とらないし、実験室だから目立たないだろうし」
ふと覗いた薔薇の館の窓からは、本鈴がなって静まりかえった校舎と穏やかな午後の日差。
「ありがとう……それで、本題なのだけれど」
「うん」
「笑ったりバカにしたりせずに聞いてね。真剣なんだから」
「わかってるよ」
「令は……由乃ちゃんと、その、デート……みたいなことはしたことあるわよね」
「それは、まあ、一応」
やっぱり今度の日曜日の、バレンタインの「宝探し」のご褒美イベントのことかな。
内心何を聞かれるのかと構えながらもなんとか平静に答える。
「いったいどういうことをするものなのか、教えてくれないかしら」
「そんなこといわれても……色々、としか言えないよ」
「今度の日曜日の」
「うん」
「私の相手が誰だか知っていて?」
「勿論知ってるけど。祐巳ちゃんでしょ?」
「そうよ……そうなのよ……。私の相手は祐巳なのよ」
「それがどうかしたの?」
「どうかしたの、ですって?あなたはこの意味がわからないの!?」
「わ、わかるようなわからないような……」
そんな意味不明なところでヒステリックになられても困る。
ふぅと気だるげに一息ついて祥子は続けた。
「……最初のデートで、失敗したくないの。良い思い出を祐巳のためにも私のためにも作ってあげたいのよ」
「デートに失敗も何もないと思うけど……。」
「それでも、私といたために不快な思いをさせるようなことはあって欲しくないの」
「大丈夫だよ。祐巳ちゃんと祥子なら。お互いに」
「他人事だと思って……」
「そんなこと思ってないってば。きっとうまくいくって」
「私は……私は、デートなんてしたことないのよ!?初めてやることがうまくいくなんて、虫がいいにも程があるわ」
「考えすぎだってば。自然体でいれば大丈夫だよ」
「日曜日に二人で過ごすことのどこが自然なの!?学校にいるのとはわけが違うのよ!いつも二人でいるのが自然な貴方達とはわけが違うんだからッ!!」
「と、とにかく落ち着いて」
激昂のあまりに椅子から立ち上がった祥子の肩に手をかけて再び座らせる。
肩と髪を優しくなでて、落ち着かせてからゆっくりと喋りかける。
「祥子は、とにかくデートで失敗したくないと」
「……そうよ」
「それで私に相談をもちかけたってことは……今まで由乃とデートするとき、どんなことをしてきたか……一般 的なデートでの過ごし方をあらかじめ知っておきたい。これでいいの?」
「ええ……よくわかってるじゃない」
冷静になってみるとヒスを起こしたことが恥ずかしいのか、ツンとそっぽを向き頬を若干膨らませる祥子。美貌に似合わない仕草のアンバランスな感じが、少し彼女を幼く見せた。
「そうだね……」
苦笑しながら口を開く。こんなことなら、色々、だなんていわずに思いつく限りをあげていればよかったかな。
「映画を見たり、遊園地にいったり、水族館にいったり。ウィンドウショッピングをしたり……服とか、靴とか。あとは本屋とかCDショップとか。ご飯はファミレスやファーストフードで軽く済ませる程度で」
「ファミレス?ファーストフード?」
「ファミリーレストラン。安い洋食屋って感じかな。ファーストフードはハンバーガーとか、ドーナツとか」
聞く祥子の表情が内容の軽さに反してあまりに真摯なものだから、つい笑いそうになる。
他にも、祥子が普段行かないような店でのマナーというか常識というか、細かいことについて色々と教える。落ち着いて長い間話すにつれて、祥子の苛立ちも納まってきた。
「こんな感じかなぁ……。あ、あと私服だからね。制服で行っちゃダメだよ」
「そ、それくらいわかってるわよッ」
「ほんとかなぁ?」
からかうように言うとさっきと同じようにまたすねてそっぽを向く。
「あはは……、でも大丈夫。そんなに心配しなくても、きっと楽しいよ。祐巳ちゃんとなら」
「そうね、祐巳となら」
名前を出しただけで一発で優しく表情を崩す祥子。
ほほえましいけれど——わずかな寂しさが胸をちくりと刺した。
結局祥子と私は、お互いに友達でしかないし、それが一番良い形なのだろう。
「あ……ごめんなさい。令は、由乃ちゃんとじゃないものね……」
「え?あ、いや……」
私の表情を勘違いしたのか、気まずそうな顔で祥子がこちらを窺っている。
「残念は残念だけど。部の後輩だし、悪い子じゃないのはわかってるし。それなりに楽しもうと思ってるよ」
「そう……」
なんとなく二人とも押し黙る。バツの悪い静寂が部屋に満ちた。
時計を見ると、次の授業まであと15分程度あった。
「あと15分か……」
見たままを呟く。
「時間はまだあるのね……」
「そうだね」
「ねえ、令」
「なに?」
「聞かないでおこうと思ったけど、やっぱり聞くわ」
「……どうしたの、改まって」
「デートの後に……その、何かをすることってやっぱり普通なのかしら」
「何かって何?」
「…………キス、とか」
「へ?」
驚く私を咳払いしてから見て、祥子は続けた。
「う、噂で聞いただけよ。デートの終わりには、そういった儀式めいたことをするって」
「いったいどこからそんなことを……ていうか儀式って」
「噂の出所はこの際どうでもいいの。ねえ、するの?」
「いや、しない……といえなくもない……ことはないような……」
問い掛けてくる強い視線に答えられずになんとなくあさっての方向を見ながら答える。
「じゃあ具体的に聞くわ。由乃ちゃんとキス、したことあるの?」
「た、単刀直入だね……」
「あるの!?」
浮気を問い詰められる亭主っていうのはこんな感じなんだろうか……。
「令、答えなさい」
「な、ないよ……」
「嘘」
「ほ、ほんとだって」
「……嘘でしょ?」
「…………」
「なんて雄弁な沈黙なのかしら。あるのね?」
「そんなこと聞いてど——」
どうするのと言いかけて、どうもこうもないことに気付く。祐巳ちゃんとのことを考えているに決まってる。
「なんていうか、雰囲気次第だと思うけど……デートのあとに必ずしもするってわけじゃないよ」
「ふうん。経験者の発言って感じね」
「う……」
なんだかイタズラしているところを発見された子供のようにかしこまってしまう。
別に悪いことをしたわけではないのに。
この妙なうしろめたさはなんなんだ。
「別に責めてるわけじゃないのよ。むしろ好都合」
「どういうこと……?」
「さっきも言ったでしょ。私ははじめてのデートで失敗したくないの」
「…………」
「万が一の事態にも備えておきたいの。だから令」
「な、なにを……」
「経験のあるあなたが、私の練習相手になりなさい」
立ち上がった祥子が、がっと私の肩を掴んだ。
「嫌なら逃げてもいいのよ。剣道部のあなたなら容易いことでしょう?」
「そ、そんなこと言ったって」
「嫌なの?」
「そういうわけじゃないけど……」
「……それなら」
椅子に釘付けの私の首に祥子は手をまわし、勢いよくくちづけた。
……しかし勢いがよすぎて、歯同士がぶつかってしまう。
「痛ッ」
どちらともなくあげた声と共に、顔を離してなんとなく見合わせる。
「……ごめんなさい。けっこう難しいものなのね……」
「ちょっと勢いがありすぎたかな……」
「もう一度。良い?」
「え、う、うん」
祥子の美しい顔がアップになる。あわてて眼を閉じる……と、鼻に湿った感触。
眼をあけると、顔の位置の目測を誤った祥子が私の鼻の頭に唇を寄せていた。
「祥子、そこちがう……」
「あら」
「もう、真剣にやってるの?」
「……やってるわよ。難しいんだから」
今日何度目かの、すねてそっぽを向く幼い表情。さっきと違うのは頬の紅潮がより鮮やかなこと。胸に湧き上がる不思議な興奮を抑え、余裕があるかのような態度を見せて言う。
「私がお手本見せてあげるよ」
祥子の頬に両手を当てた。そっぽを向いたまま、戸惑うように視線だけをこちらに寄越してくる。少し力をいれてこちらに顔を向けさせ、じっと瞳を見つめる。
そのまま右手だけを動かし耳に触れ……さらに後ろにまわして髪を弄ぶ。
「ふあ……」
ぶるっとすこし肩を震わせ、祥子が眼を閉じようとした。
「見てなくちゃわかんないよ……?」
耳もとで囁いて、羞恥の色に染まった瞳を開かせる。
祥子が見ているのをしっかりと意識しながらゆっくりと唇を重ねた。同時に、背に回した腕に力をこめて拘束。「んっ……く……」
わずかな衣擦れの音だけがしめやかに部屋に響く。
——いまこの瞬間は、祥子は私のものだ。
根拠のない実感が少し私を大胆にする。
わずかに舌を出し、祥子の唇をごく小さく舐めた。
腕のなかで硬直している背中が跳ねた。
「……ふぅ、んん……」
腕に感じる思いのほか細い肩と華奢な二の腕。
手のひらのうえの冷たい首筋と頬。
胸におしつけられた制服の生地越しでもやわらかな感触。
甘く濡れた唇。
本能と無意識は、衝動と大胆さは、それ以上を求めていたけれど。
理性と感情が許さなかった。
少しだけ唇と体を離す。
「……どう?わかった?」
「……ええ、だいたい……」
「気持ちよかった?」
「……すごく」
熱に潤んだ瞳と誘うような返答に背筋がちりちりする。相手が祥子だからそのまま押し倒してしまいたくなるが、相手が祥子だからぐっと押し留まる。これ以上はダメだ……けれど。
「続き、する?」
抗いがたい欲求から、ついそう聞いてしまう。
「……続き?……」
「うん……続き……」
わずかな期待を込めて、熱い息を吐いて俯く祥子の返事を待っていると——
キーンコーンカーンコーン……
授業終了のベルが鳴った。
「教室に戻りましょう」
祥子の体がすっと離れる。
「……そうだね」
ああ、良かった。
これで良かった。
私達は姉妹ではないし、ましてや恋人同士でもない。踏み越えてはいけない一線がある。
「今日はありがとう。勉強になったわ」
「うん」
二人分のうわばきの床にこすれる音が休み時間の喧騒の廊下に小さくこだまする。
いつもと同じだけの間隔をあけて、二人並んで教室に帰った。
「え?行くって……?」
「次は化学の実験でしょ?」
「ああ……そうね。そうだったわね」
どうも朝から祥子の様子がおかしいというか、なんというか。心ここにあらずといった感じでぼんやりとしている。そのうち治るだろうと思って静観していたが、昼休みが終わろうという今になってもそのままだ。またこのお嬢様は何を思い悩んでいるのだろうと心中で苦笑しながら急かす。
「ほら、教室の鍵閉まっちゃうよ」
予鈴間近であわててトイレに駆け込む生徒や教室移動する生徒でざわめく廊下。こうして祥子と友達としてこういう雰囲気の廊下を歩いたり、無駄話をしたりすることはけっこう好きなのだけれど。
……どうしたものか。こうもぼんやりされるとなんと声をかけていいものやらわからない。
「……今週の日曜日」
「え?」
考えあぐねていると、祥子のほうから声をかけてきた。
「あなたは田沼ちさとさんとだったかしら」
「そうだけど」
「由乃ちゃんとでなくて残念?」
「そりゃぁ……まぁ……」
由乃の不機嫌な顔を思い出した。日曜日の夜……何言われるかわかったもんじゃないな。
「ああ、ごめんなさい。そんなつもりで言ったんじゃないの」
よほど苦い表情をしてしまっていたのか、珍しく祥子のほうからフォローが入った。
「別にいいよ。それより……」
朝からの沈んだ様子が気にかかった。
「どうかしたの?悩み事?」
言うと同時に、並んで歩いていた祥子の姿が急に視界から消えた。
振り返ると思いつめたように教科書やノートをかき抱いて立ち止まり、廊下に視線を落としている。
「……実はあなたに相談したいことがあって」
やっぱり。
「相談は全然かまわないけど、もうすぐ授業が——」
キーンコーンカーンコーン……
喋ろうとした内容に示し合わせたように予鈴が鳴った。
「ほら、取りあえず実験室行かないと……」
未だ立ち止まったままの祥子の手をとって歩き出そうとすると、思わぬほど強い力で引き戻された。
「祥子?」
「令、次の時間を私にくれないかしら」
「それっていったい——」
「来て」
祥子は私の手をとって走り出した。
どういう展開なんだろう、これは。
すれ違う同学年の生徒が奇異の目を向け、下級生が黄色い声をあげている。
そんなことは祥子の眼や耳に入っていないようで、思いつめた表情でどんどん進んで行く。目的地は恐らく薔薇の館だろう。
石畳の道を二人で駆ける。
あの真面目で硬い祥子と二人で授業をさぼろうとしている——。このシチュエーションに少し心が浮き立つのを感じるのは不謹慎だろうか。
付き合わせて悪いわねと切り出した祥子に、まあとにかく座ろうよと椅子を引いてやる。
「多分大丈夫だよ。あの先生いっつも出欠とらないし、実験室だから目立たないだろうし」
ふと覗いた薔薇の館の窓からは、本鈴がなって静まりかえった校舎と穏やかな午後の日差。
「ありがとう……それで、本題なのだけれど」
「うん」
「笑ったりバカにしたりせずに聞いてね。真剣なんだから」
「わかってるよ」
「令は……由乃ちゃんと、その、デート……みたいなことはしたことあるわよね」
「それは、まあ、一応」
やっぱり今度の日曜日の、バレンタインの「宝探し」のご褒美イベントのことかな。
内心何を聞かれるのかと構えながらもなんとか平静に答える。
「いったいどういうことをするものなのか、教えてくれないかしら」
「そんなこといわれても……色々、としか言えないよ」
「今度の日曜日の」
「うん」
「私の相手が誰だか知っていて?」
「勿論知ってるけど。祐巳ちゃんでしょ?」
「そうよ……そうなのよ……。私の相手は祐巳なのよ」
「それがどうかしたの?」
「どうかしたの、ですって?あなたはこの意味がわからないの!?」
「わ、わかるようなわからないような……」
そんな意味不明なところでヒステリックになられても困る。
ふぅと気だるげに一息ついて祥子は続けた。
「……最初のデートで、失敗したくないの。良い思い出を祐巳のためにも私のためにも作ってあげたいのよ」
「デートに失敗も何もないと思うけど……。」
「それでも、私といたために不快な思いをさせるようなことはあって欲しくないの」
「大丈夫だよ。祐巳ちゃんと祥子なら。お互いに」
「他人事だと思って……」
「そんなこと思ってないってば。きっとうまくいくって」
「私は……私は、デートなんてしたことないのよ!?初めてやることがうまくいくなんて、虫がいいにも程があるわ」
「考えすぎだってば。自然体でいれば大丈夫だよ」
「日曜日に二人で過ごすことのどこが自然なの!?学校にいるのとはわけが違うのよ!いつも二人でいるのが自然な貴方達とはわけが違うんだからッ!!」
「と、とにかく落ち着いて」
激昂のあまりに椅子から立ち上がった祥子の肩に手をかけて再び座らせる。
肩と髪を優しくなでて、落ち着かせてからゆっくりと喋りかける。
「祥子は、とにかくデートで失敗したくないと」
「……そうよ」
「それで私に相談をもちかけたってことは……今まで由乃とデートするとき、どんなことをしてきたか……一般 的なデートでの過ごし方をあらかじめ知っておきたい。これでいいの?」
「ええ……よくわかってるじゃない」
冷静になってみるとヒスを起こしたことが恥ずかしいのか、ツンとそっぽを向き頬を若干膨らませる祥子。美貌に似合わない仕草のアンバランスな感じが、少し彼女を幼く見せた。
「そうだね……」
苦笑しながら口を開く。こんなことなら、色々、だなんていわずに思いつく限りをあげていればよかったかな。
「映画を見たり、遊園地にいったり、水族館にいったり。ウィンドウショッピングをしたり……服とか、靴とか。あとは本屋とかCDショップとか。ご飯はファミレスやファーストフードで軽く済ませる程度で」
「ファミレス?ファーストフード?」
「ファミリーレストラン。安い洋食屋って感じかな。ファーストフードはハンバーガーとか、ドーナツとか」
聞く祥子の表情が内容の軽さに反してあまりに真摯なものだから、つい笑いそうになる。
他にも、祥子が普段行かないような店でのマナーというか常識というか、細かいことについて色々と教える。落ち着いて長い間話すにつれて、祥子の苛立ちも納まってきた。
「こんな感じかなぁ……。あ、あと私服だからね。制服で行っちゃダメだよ」
「そ、それくらいわかってるわよッ」
「ほんとかなぁ?」
からかうように言うとさっきと同じようにまたすねてそっぽを向く。
「あはは……、でも大丈夫。そんなに心配しなくても、きっと楽しいよ。祐巳ちゃんとなら」
「そうね、祐巳となら」
名前を出しただけで一発で優しく表情を崩す祥子。
ほほえましいけれど——わずかな寂しさが胸をちくりと刺した。
結局祥子と私は、お互いに友達でしかないし、それが一番良い形なのだろう。
「あ……ごめんなさい。令は、由乃ちゃんとじゃないものね……」
「え?あ、いや……」
私の表情を勘違いしたのか、気まずそうな顔で祥子がこちらを窺っている。
「残念は残念だけど。部の後輩だし、悪い子じゃないのはわかってるし。それなりに楽しもうと思ってるよ」
「そう……」
なんとなく二人とも押し黙る。バツの悪い静寂が部屋に満ちた。
時計を見ると、次の授業まであと15分程度あった。
「あと15分か……」
見たままを呟く。
「時間はまだあるのね……」
「そうだね」
「ねえ、令」
「なに?」
「聞かないでおこうと思ったけど、やっぱり聞くわ」
「……どうしたの、改まって」
「デートの後に……その、何かをすることってやっぱり普通なのかしら」
「何かって何?」
「…………キス、とか」
「へ?」
驚く私を咳払いしてから見て、祥子は続けた。
「う、噂で聞いただけよ。デートの終わりには、そういった儀式めいたことをするって」
「いったいどこからそんなことを……ていうか儀式って」
「噂の出所はこの際どうでもいいの。ねえ、するの?」
「いや、しない……といえなくもない……ことはないような……」
問い掛けてくる強い視線に答えられずになんとなくあさっての方向を見ながら答える。
「じゃあ具体的に聞くわ。由乃ちゃんとキス、したことあるの?」
「た、単刀直入だね……」
「あるの!?」
浮気を問い詰められる亭主っていうのはこんな感じなんだろうか……。
「令、答えなさい」
「な、ないよ……」
「嘘」
「ほ、ほんとだって」
「……嘘でしょ?」
「…………」
「なんて雄弁な沈黙なのかしら。あるのね?」
「そんなこと聞いてど——」
どうするのと言いかけて、どうもこうもないことに気付く。祐巳ちゃんとのことを考えているに決まってる。
「なんていうか、雰囲気次第だと思うけど……デートのあとに必ずしもするってわけじゃないよ」
「ふうん。経験者の発言って感じね」
「う……」
なんだかイタズラしているところを発見された子供のようにかしこまってしまう。
別に悪いことをしたわけではないのに。
この妙なうしろめたさはなんなんだ。
「別に責めてるわけじゃないのよ。むしろ好都合」
「どういうこと……?」
「さっきも言ったでしょ。私ははじめてのデートで失敗したくないの」
「…………」
「万が一の事態にも備えておきたいの。だから令」
「な、なにを……」
「経験のあるあなたが、私の練習相手になりなさい」
立ち上がった祥子が、がっと私の肩を掴んだ。
「嫌なら逃げてもいいのよ。剣道部のあなたなら容易いことでしょう?」
「そ、そんなこと言ったって」
「嫌なの?」
「そういうわけじゃないけど……」
「……それなら」
椅子に釘付けの私の首に祥子は手をまわし、勢いよくくちづけた。
……しかし勢いがよすぎて、歯同士がぶつかってしまう。
「痛ッ」
どちらともなくあげた声と共に、顔を離してなんとなく見合わせる。
「……ごめんなさい。けっこう難しいものなのね……」
「ちょっと勢いがありすぎたかな……」
「もう一度。良い?」
「え、う、うん」
祥子の美しい顔がアップになる。あわてて眼を閉じる……と、鼻に湿った感触。
眼をあけると、顔の位置の目測を誤った祥子が私の鼻の頭に唇を寄せていた。
「祥子、そこちがう……」
「あら」
「もう、真剣にやってるの?」
「……やってるわよ。難しいんだから」
今日何度目かの、すねてそっぽを向く幼い表情。さっきと違うのは頬の紅潮がより鮮やかなこと。胸に湧き上がる不思議な興奮を抑え、余裕があるかのような態度を見せて言う。
「私がお手本見せてあげるよ」
祥子の頬に両手を当てた。そっぽを向いたまま、戸惑うように視線だけをこちらに寄越してくる。少し力をいれてこちらに顔を向けさせ、じっと瞳を見つめる。
そのまま右手だけを動かし耳に触れ……さらに後ろにまわして髪を弄ぶ。
「ふあ……」
ぶるっとすこし肩を震わせ、祥子が眼を閉じようとした。
「見てなくちゃわかんないよ……?」
耳もとで囁いて、羞恥の色に染まった瞳を開かせる。
祥子が見ているのをしっかりと意識しながらゆっくりと唇を重ねた。同時に、背に回した腕に力をこめて拘束。「んっ……く……」
わずかな衣擦れの音だけがしめやかに部屋に響く。
——いまこの瞬間は、祥子は私のものだ。
根拠のない実感が少し私を大胆にする。
わずかに舌を出し、祥子の唇をごく小さく舐めた。
腕のなかで硬直している背中が跳ねた。
「……ふぅ、んん……」
腕に感じる思いのほか細い肩と華奢な二の腕。
手のひらのうえの冷たい首筋と頬。
胸におしつけられた制服の生地越しでもやわらかな感触。
甘く濡れた唇。
本能と無意識は、衝動と大胆さは、それ以上を求めていたけれど。
理性と感情が許さなかった。
少しだけ唇と体を離す。
「……どう?わかった?」
「……ええ、だいたい……」
「気持ちよかった?」
「……すごく」
熱に潤んだ瞳と誘うような返答に背筋がちりちりする。相手が祥子だからそのまま押し倒してしまいたくなるが、相手が祥子だからぐっと押し留まる。これ以上はダメだ……けれど。
「続き、する?」
抗いがたい欲求から、ついそう聞いてしまう。
「……続き?……」
「うん……続き……」
わずかな期待を込めて、熱い息を吐いて俯く祥子の返事を待っていると——
キーンコーンカーンコーン……
授業終了のベルが鳴った。
「教室に戻りましょう」
祥子の体がすっと離れる。
「……そうだね」
ああ、良かった。
これで良かった。
私達は姉妹ではないし、ましてや恋人同士でもない。踏み越えてはいけない一線がある。
「今日はありがとう。勉強になったわ」
「うん」
二人分のうわばきの床にこすれる音が休み時間の喧騒の廊下に小さくこだまする。
いつもと同じだけの間隔をあけて、二人並んで教室に帰った。
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